高柴三聞『カマスおやじがつれて行った』

 僕は、昔から押入れにいるのが好きだったから、随分とうっかりした事になってしまったなと思う。
 ある雪の朝。母さんがいなくなってしまった。父さんも、爺も婆も口を噤んでいるだけだった。出し抜けに、母さんがしてくれたカマスおやじの話を思い出した。
 母さんは、袋に入れられて攫われたのだと思った。私は、怖くて、怖くて押入れに身を隠した。うつらうつらと居眠りが始まる。そして暗くて静かな時間が流れていった。
子供の私は、空腹に耐えかねて押入れから這い出す。そして、外の異変に気がついたのだった。誰もいなくなっていたのだった。
テーブルに伏せてある茶碗。読みかけの新聞。開けっ放しの玄関。
私は、思わず怖くなって、外に駆け出した。
外は、誰も居なくなっていた。
 粉雪が静かに舞い降りる。道の真ん中に人だけ居なくなってしまった自動車。倒れて置かれた自転車。
 駆け込んだ商店にも誰も居なかった。人の姿。否、生きている者の姿はどこにも無かった。主を失った無機質な街が残骸のように僕の目の前に広がっていた。
それこそ、テレビやラジオを着けても、空しい砂嵐が出てくるだけだった。
それから私は、何年も一人ぼっちだった。何故、私だけ。やはり、押入れに居たのが良くなかったのか。
嗚呼、人の声が聞きたい。そして私は

野棲あづこ『後継者』

 しゅっしゅっと手元から聞こえる微かな音とともに籠は少しずつ形を浮かばせていく。私の籠は編み上がるなり、待ちわびている人の手に渡っていく。いつのまにか匠と呼ばれるようになったが、この腕は受け継いだもの。
 私の手柄ではない。

手は一時も休まない。祖母の手によって黙々と目を編み連ねていく籠は、美しい曲線を描く。私は、その中に紅い林檎や深い紫の葡萄が盛られている姿を想像してうっとりとする。
 ――私にも作れるかなあ。
 そういって、習い始めたのだが私の籠は目もそろわず、曲線は波のよう。祖母の手の動きと比べて、ふっと息を吐く。
 もう全然駄目だ。諦めかけて手を止めたとき、ぱちんと囲炉裏の火がはぜた。
 祖母が私の籠を見る。
 ――ああ、懐かしいねえ。
 祖母の指は不格好な籠の目をなでる。――気にせず続けな。そのうち私の手をやるよ。ばあちゃんの手もばあちゃんのばあちゃんから貰ったんだ。
 
籠編みを習い始めた次の冬、祖母は亡くなった。私は不格好な籠と、芸術品のような祖母の籠を並べて泣いた。
 泣ぐな。泣ぐな。
 泣き続けていると祖母の声が耳に響いた。肉厚で皮膚が堅い、暖かい感触がふわりと両手を包んだ。
 すぐに竹を割り、籠を編んだ。手が竹を知っていた。するすると目が揃い、線は緩やかな丸みを帯びた。編み上がった籠を前にもう一度泣いた。私は腕をあげ籠を編み、日々は積み重なった。
匠と持ち上げられるようになっても私はまだ一人前ではない。この手を受け継ぐ者を育てなくては。
 
 ――あなた、やってみませんか?

高柴三聞『家守になったお父さん』

 ある村の外れに親子が住んでいました。父と年頃の娘の貧しい二人暮らし。父は、朝から晩まで山に入り炭を焼いて暮らしていました。娘は、峠の小屋で一人お茶屋をして暮らしていました。娘は父が嫌いでした。卑屈で汚れていて何とも腹立たしくて仕方ありませんでした。ついつい強い口調で話をしてしまう事が度々でした。そんな娘が、父は怖くて仕方ありませんでした。いつも横目で娘の機嫌を窺って暮らす有様。
 ある雪の降る夜のこと。父親が、いつものように囲炉裏の前で背中を丸めて酒を呷っていました。娘は、飯を食うと、父親の前から消えるように床に着きました。家の中では親子の間を遮るものがありません。父が娘から隠れること、娘が父を避けることはどちらか一方が目を閉じることでしかできません。父が、苛立たしげに何か呟いて立ち上がりました。ゴトンと茶碗が音を立てて床の上に転がりました。いつのまにか父は酒臭い熱い吐息を娘の耳元に吐きかけながら娘の上に覆い被さっていました。暗い家の中に、犬の遠吠えのような叫び声が木霊しました。驚いた娘は、気が付けば壁を背にして座り込んでいました。娘の視線の先には、父の肉体だけが、ふわっと空気の中に溶けたかのように父の着物が床の上に落ちていました。娘が薄暗い暗闇に目を細めて見つめると小さな一匹の家守が壁の上を必死に逃げまどうように這い回っていました。そして、家守は、暗い天井の闇の中に消えていってしまったのです。
 それから、娘は独りぼっちで暮らしていました。村の人が父のことを訪ねると、娘は無言で家の天井を指さすのが常でした。そして指の先には必ず家守が一匹、落ちつきなく這い回っているのが見えたそうです。娘は長らく一人で暮らしていたそうですが、その娘も家を出て家守のいる家だけが長い間独りでに朽ちていくまで取り残されていたそうです。

高柴三聞『なまはげびふぉあくりすます』

 人間の子供に元気がないと言いながら沼の河童が転げるように、なまはげの住処にやってきた。なまはげは丁度、趣味の包丁砥ぎの最中で、内心煩いやつが来たと心の中でボヤイいた。河童が一方的に話すのを最初は上の空で聞いていたが、だんだんと心が痛くなってきた。何でも、親に愛されない子がおるとかで、人間の世界では「家庭の事情」とかいうのだそうだが…。なまはげは、包丁を研ぐのを止め腕組みして考え込んだ。子供に笑顔を取り戻さねば。
 その日の夜、山の頂に、河童となまはげがいた。この時のなまはげの姿は異様だった。巨大な蓑を顔の下のほうに結んでヒゲのつもりらしい。頭に真っ赤な三角の帽子がかぶれずに角の片方にさしてある。左手には汚れた大きな袋。右手にはいつもの包丁…。包丁をめぐって、二時間ほど二匹は口論になるが、なまはげが折れる形で決着。折衷案として包丁の代わりに樫の木で作った大きな十字架を握ることに。結果的になまはげの姿はますます異様に…。
 なまはげは、地響きのような声で「めれーくりすんます!」と叫ぶと、人骨の手の部分を二本、トナカイの角のよう掲げた河童を従え、夜の街へ突進。かくして街は、吼え猛る怪物達により恐慌をきたしたのだった。空気の冷たい夜空は悲鳴が良く通る。子供は脅え泣き叫び、大人達は我先に逃げ惑った。二匹は、いかんせん人間社会に疎かった。警察どころか戦車が砲撃をしながら街中を走りまわる大惨事となった。命からがら逃げ帰って来るなり倒れこんだ。可愛そうに疲労困憊である。鈴の音が何処からとも無く聞こえて来た。サンタクロースのトナカイの引く橇が大空を駆けていた。橇の通った後から雪が、ダイヤモンドのように煌きながら二匹の所に舞い降りてきたのだった。メリークリスマス。

大河原朗『感触』

 胸のあたりがもぞもぞする。それが左の乳房だったものだからキャッと軽く悲鳴をあげる。真っ暗な部屋に目を凝らしても誰もいない。時計は見えないが、深夜には違いない。
 気の強い性分だった。翌朝、男子青年部の宿舎に乗り込むと、寝ぼけ眼の男性陣に向かって「誰がやった」と睨み付けた。
 それが二人の馴初めだった。年頃の若い娘に首根っこを掴まれ「胸を揉んだでしょう」と迫られたら面食らうしかない。彼は当時を振り返り「一番顔のいいオレを狙ったんだ」と得意満面だが、彼女は「スケベ顔のこいつにちがいないと思っただけ」と鼻で笑う。
 なんだかんだで結婚にまで至り、子どもを授かった。分娩台の上、まだ羊水に濡れる我が子へ最初の母乳を与えたとき、彼女は「この感じよ」と声を漏らした。あの晩、左胸をくすぐった感触とまさに同じだったのだ。
 彼女は「あなたが生まれるためにママとパパを引き合わせたのね」と無心に乳房を吸う我が子に語りかけた。後から思えば気恥ずかしい言葉でも、生命誕生の神秘を体験した直後は、理屈を超越した実感があったという。
「世の中には不思議なことがあるのね」
 彼女はその後、家族三人で幸せな生活を送っている――と、話がこれで終わったのは一年間だけだった。
 腫瘍が見つかった。
 子どもが一歳を過ぎ、乳離れしてからも左胸にあの感触が残っていた。感動体験の余韻にしては長すぎる。母子検診で医者にその旨を告げ、精密検査を受けた。彼女の嫌な予感は的中した。
 ところが、たしかに腫瘍はあったが、初期も初期、自覚症状もないばかりか普通では発見するのも難しいほどに小さかった。運が良いと医者にも感心された。
「どこまでが偶然なんだろうね」
 彼女は我が子を抱きながら笑う。もう左胸にあの感触はない。

一双『温度画像』

 中学最後の冬休みに僕はチャットサイトをロムっていた。
 話しているのはどちらも男で、九州と東北の人のようだった。僕がロムり出した時、彼らは雪の話をしていた。
「今年はまだ直に見てないなぁ」
「マジで? こっちは積もったのが溶ける前に次のが降るよ」
「白い?w」
「白いねぇwww」
「同じ日本で、同じ冬なのに、ホント違うよな」
「うんうん。そんなに離れているにもかかわらずこうして世間話ができる便利な時代w」
「しかも文章だけでなw」
「まったくwwwそれでも人柄って伝わるよねぇ。そこでユニークな九州君に、東北の俺が雪の代わりの冷たい話を進呈しよう」
「ナニナニ? ちょっと怖いんだけどw」
「んー、知ってて損はしないと思うけど、怖いの嫌なら止めとく?」
九州男児ナメんなよっw」
「オッケーwそれでは東北男児が語ります。一枚の画像の話。写っているのは雪原に少し埋まったピンクのニット帽」
「女物?」
「だろうね。その画像、触れると温度が違う。雪の部分は冷たくて、ニット帽の部分は温かい。そして、ニット帽の下はもっと冷たい」
「それって……」
「わからない。ただ、画像に触れるとパソコンでも携帯でも必ず壊れるらしい。文字通りのフリーズ(凍結)」
「何だそれwダジャレかよwww」
「wwwww」
「その画像。どこにありますか?」
 それまでロムっていた僕が書き込むと、二人は即座にチャットサイトからログアウトした。
 怪談好きが怖がりというは本当の話らしい。

田磨香『糸水』

 父の記憶はなく、貧しい母子家庭に育った少年時代。上手く周囲に馴染めなかった僕の、Dはたった一人の友達だった。
 青森から転校してきたDもまた、それがひどく中途半端な時期だったことと、訛りによる言葉の壁が災いして、上手く周囲に馴染めず、僕だけが友達だった。
 ある冬の日。いつものように、Dの家で遊んでいた時である。Dが突然、神妙な顔をして黙り込んだ。何事かと思っていると、やがて意を決した顔で立ち上がり、ついて来てと言って歩き出した。
 連れて行かれた先は、台所だった。蛇口から、細い糸のように、水が垂れている。Dはギュッと栓を閉めて、その糸を切った。
 見てて、と言ったDの声は、少し震えていたように思う。そして、一分と経たずして、ひとりでに栓が回り、蛇口からはまた糸状の水が垂れ始めた。
「おばあちゃん」
 二度、三度と同じことを繰り返したあと、四度目に、Dは呟いた。Dのいた青森では、あまりの寒さのために、水道の水さえ凍ってしまう。それを防ぐために、こうして水を出しっぱなしにしておくという。もう何年も前に亡くなったおばあちゃんがついてきているのだと、Dは言った。
 秘密だよ、と微笑んで。
 ああ。二人だけの秘密だ。
 仕事を終え、家に帰れば台所の蛇口から、細い糸のように、水が垂れている。
「少しずつ出せばメーターが回らなくて、水道代が節約できるのよ」
 母はそう言って、常に水を少しだけ出しっぱなしにして、貯めて使っていた。
 細い糸のような水。それは今はもうどこにいるかもわからぬDとの変わらぬ友情のようで嬉しく、母の人生を思うと、少し悲しい。