第1回「みちのく怪談コンテスト」総評

平成22(2010)年11月18日金曜日午後6時から、岩手県盛岡市の県公会堂において、第1回〈みちのく怪談コンテスト〉の選考会が行なわれました。作家・高橋克彦さん、〈東北学〉で知られる東北芸術工科大学東北文化研究センター所長の赤坂憲雄さん、文芸評論家・アンソロジスト・怪談専門誌『幽』編集長の東雅夫さんの3時間にわたる討議の結果、既報の通り受賞作が決定いたしました。この選考会の模様は12月末刊の『仙台学vol.10』にてご紹介しますが、選考委員のみなさんの総評をひと足先にお届けします。選考会の詳しいリポートは『仙台学vol.10』の刊行をお待ちください。
東雅夫

 それでは総評を、まず私から。私はビーケーワン怪談大賞の審査で、毎年数百編にのぼる八〇〇字怪談を読んでいます。苦しくも愉しい作業なのですが(笑)、そうやって長年続けていますと、どうしても類型化してくる部分があって、そこをどう打破するかが課題でもあるなあと思っていたのですが、それが今回のみちのく怪談では、とても新鮮な印象を受けた。かなりの投稿者が〈てのひら怪談〉の常連とかぶっているのですが、それにも拘わらず新鮮だった。これは〈みちのく〉という縛りが緊張感を強いたのではないか。体験したことのない縛りがあることによって、書き手も「いつもとは違うぞ」と腕をまくった。書き手にとっても〈みちのく〉縛りが新鮮だった結果ではないかと思います。もうひとつ、私が個人的に期待していたのは、ネットで怪談を投稿したりすることにあまり関心がなかったり、知るきっかけがなかったみなさんの参加でした。〈みちのく怪談〉と銘打ったことによって、新たに八〇〇字の怪談に関心を持たれて、あるいは初めて知って、ご自分の体験や地元のお話を投稿していただけたらいいな、と。文芸としての技術面が弱くても、どこか地元ならではのよさがあればいい。例えば、ミッチー芳賀さんの『野狐と私の勝負』はそれを感じさせてくれた作品でした。今後の期待としていえば、望むらくはもっと地元のみなさんに積極的に参加していただけると、さらに面白い賞になっていくのではないかと思っております。

赤坂憲雄

 ぼくは東さんの『幽』で三人で話したときもいったように、怪談のプロではありません。今年の一月に東さんにこのプロジェクトを持ちかけられてから、一連の〈てのひら怪談〉に目を通してきたわけですが、結果としていえば〈みちのく怪談〉はあきらかに〈てのひら怪談〉とは違っていましたね。東さんもいわれたように〈みちのく〉を冠したことが書き手たちに試行錯誤を促したのだと思います。〈東北学〉の側からいえば、書き手のみなさんが〈みちのく怪談〉を通じて〈みちのく〉について考えてくれた。一生懸命に東北を勉強したような作品もあって、完成度はイマイチでも思わず肩入れしてあげたくなったりしましたよ(笑)。お二人は怪談のプロですから、きっとそういう視点からは選ばないだろうから、ぼくはそんな作品を選ぼうという意識もありましたね。やはり〈東北学〉視点で選んだといえるかもしれません。ただ、まだはっきりとは見えていませんが、やっぱり〈みちのく怪談〉というジャンルはあるんだ、ありなんだと確かに感じさせられました。これが今後どのように凝縮されていくのか、収斂されていくのか。例えば『隠し子』とか『あわいの町』などを読むと東北の風土は隠すとか隠れるとか、そんな物語が似合う土地なんだなとあらためて思いました。同じような物語が東京のような大都会を舞台に語られるとどうなるのか。逆にいえば、この種の物語が東北的なのだとすれば、似合いすぎるがゆえに衝撃が少なくなる可能性もある。いろいろと考えさせられて、おもしろかったですね。コンテストを続けていくと、もっとはっきりと〈みちのく〉の輪郭が浮かび上がってくるんじゃないか。そんな予感があります。

高橋克彦

 実作者としていえば、『遠野物語』もだいたい八〇〇字から一二〇〇字くらいの話が多いでしょう。〈みちのく怪談〉と聞いて『遠野物語』を参考にして、簡単に書けそうに思って取りかかった人たちも多かったんじゃないでしょうか。けれども『遠野物語』の語り手の佐々木喜善は、あの時代において遠野以外の人に読んでもらおうと思って話したわけじゃない。喜善の話は、例えば「デンデラ野」とか「白望の山」などが唐突に出てきてはじまっている。現代の読者は遠野に対しての知識があるから「デンデラ野」や「白望の山」の説明がなくても「ああ、遠野の物語だな」とわかります。これは『遠野物語』が古典であるがゆえなんですよ。その地の住人しか知らないような山の名前からいきなり物語をはじめたら、普通は読者に理解してもらえない。いろいろと説明しなければならない。結局、この文字数で『遠野物語』と同じようには書けないわけです。だけど、八〇〇字で全ては説明できないよね。だから書き手は『遠野物語』から離れなければいけない。それなのに『遠野物語』に近づこうとして、みんな大きな物語を短くしようとしている。情報が多い時代に生きているので、なんでもかんでも枚数に合わせて縮めようという意識が働いてしまうところもあるかもしれない。そうではないんです。小さな話を広げるのが大事なんです。一回目だからしかたないけれど、ここに気がついていない人が大半だったように思います。優秀作とか入選作になったものをあらためて読んでもらえばわかると思うけれど、なんの説明もせずにいきなり世界を広げている。それがすごく重要なんだ。八〇〇字をいきなり別の世界に引っ張っていく入り口にしなければならない。別の世界へ引き込む……怪談はもともとそういうものなんですから。そんなところを意識してもらえると〈みちのく〉の不思議なイメージをもっと上手く使ってもらえるんじゃないかな。東北の書き手たちは現実の東北を知っているわけだから、どちらかといえば合理的な話を書くようになって、外の人たちが〈みちのく〉にイメージを掻き立てられて不思議な話を書いてくるようになるかもしれないね。そうなるとおもしろいなあ。期待できますよ、これは。