六井千鶴『雪女』

 吹きすさぶ雪は白さを増し、フロントガラス越しにごうっと音を立てている。寒さが染みこんでくる車中で、一人の男が雪の牢獄に閉じこめられたまま、夜明けを待っていた。
 大雪の中を運転しての帰り道。真っ暗な夜の雪道。ヘッドライトを通りすぎていく雪の流れを眺めながら車を走らせていると、突然目が回るような感覚に襲われた。
 凍りついた雪道にハンドルをとられ、滑るようにして路肩に落ちこんだ。車はすっぽりと雪の中に嵌りこんでいて自力では抜け出せない。
 窓の外には、真白な雪に包まれた世界が、銀色の湖のように広がっている。人の姿も音もない。
 仕方なく運転席でシートを倒し天井を見つめていると、ふと雪の音が止んだ。
 男が体を起こして外を見ると、桜の花びらのようにゆっくりと舞う雪の向こうの方から、白いものが、ふわりふわりと近づいて来る。
(雪女−−)
 ひときわの寒気に襲われ、肌が粟立つ。逃げようにも逃げ場はなく、動こうにも、かじかんだ体が動かない。見たくないと思う心とは逆に、視線をそらすことができない。
 女の白い手がドアハンドルにかけられたとき、男は咄嗟にドアロックを抑えこんだ。するとその手に、車ごと凍りつくのではないかと思うほどの冷たさが伝わってくる。消えてくれと心の中で念じながら震える自分の手を見ていると視界の端に長い艶やかな黒髪が写った。女が顔を寄せている。
 顔を上げると、感情さえも凍りついてしまったかのような女の顔に切ない色が浮かび、
「男のひとの助けがいるのです」
 と言い、湖畔へと誘う。
 窓越しに触れ合った指先から仄かな温もりが伝わってくると、男は丸い闇に包まれた。
 翌朝、近隣住民が男の車を発見したが、車中に彼の姿はなかった。ただ一羽の白鳥が、女のような悲しい声で鳴きながら空を舞っていた。