応青『……もうし、そちの人(残欠)』

 この吹雪、海も騒ぐ暮れ時にどちらへ―と定蔵に声かけたのは若い女のようであった。駒は竹のボロ三味線、雨雪よけに古木綿で包み背負っての門付け旅、行くあてもなかったが、ただ下北へと陸羽街道を野辺地あたりで外れ、海辺伝いに脇道をとった途中であった。空腹には慣れっこだが、氷雨雪風の寒さ―ただ火匂りが恋しかった。
 見れば目のご不自由なボサマ、あばら家ですが火はございます、と藁屋根の傾がる漁師屋に引いてくれた女の手は柔らかく、だが氷のように冷たかった。ああ、ぬぐだまる―凍瘡の両手をかざす囲炉裏端、女のじゃっぱ汁が凍えをほぐす。わだば金もらって歩くホイドせ。まどもな礼はでぎね、じょんずでねが、おはら節でも唄るでゃ―荷をほどいた定蔵に女は、いえ、三味線を聞かせてくださいという。かんつけだ我の樺桜、撥も浜で拾った流れ木っ端だもの―やだらじゃがめがす門付けならまだえが、独り三味線だば―と渋る定蔵に女は髪から櫛を外すと、これを撥がわりに、と手に握らせた。霞目でもそれとわかる象牙の月挿櫛、握りの具合も掌になじむ。三味線は貧しくともその音は自分の気持ちと指とでつくるものでございましょうと女の一言に、定蔵、櫛を撥がわりに弾き始めたのが津軽じょんがら―。踊り調子から入ったが打ち弾くにつれ、指は棹を滑り走り、糸もきれんとばかりに撥が踊った。……うすめぐと卑しめられた少年の頃、それをかばってくれた母、無口だった父、祭りの村賑わい……糸をすくい打ちながら過ぎた日々が去来する……。
 夜明けた頃であったか―雪吹き散る礒岩、海鳴りに三味線を弾くボサマを漁師たちが見つけた。なしてあげなどごで、すがま女房にでも出ぐわしたでねべっか、と口々に漁師たちは声をかけた。怪訝に思った定蔵―だが掌に握っているのは確かに挿櫛である。昭和二年冬、高橋定蔵十七歳―後の竹山、生涯にわたる三味線一人旅―別れ旅の始まりであった。