いわん『川辺』

 僕は、幼少の頃、広瀬川で溺れた。
 一緒にいた姉の証言によると、広瀬川の澱みを覗き込んでいると思ったら、そのまま頭から落ちたらしい。姉はあまりの事態に硬直し、声も発せられなかったそうだ。父が飛び込んで助けてくれたらしいが、僕の記憶にあるのは、水面に沈んでいく視界と、その向こうに立っていた姉の姿だけ。
 今は亡き父が、酒を飲みながら言った。
 「あのとき、弟が呼んだ気がしてな」
 父の記憶によると、僕が生まれるだいぶ前に亡くなった僕の叔父が、溺れている僕を助けるために父を呼んだらしい。そのおかげで、僕はまだ生きているわけだが。
 事の真偽はともかくも、僕は広瀬川で溺れ、そして父に助けられた。それが原因になったのだろう。僕は小学校高学年になるまで、水が怖くてプールにすら入れなかった。あのときの恐怖が残っていたのだろう。友人たちに学校のプールに突き落とされた時は泣き出しもした。しかしながら、不思議と、広瀬川には頻繁に行くようになった。ふらっと心引かれるように広瀬川に行っては、水面を眺めていた。もちろん、その頃はもう川に落ちたりはしなかったが。
 あれから十五年あまりの初夏。東京へ進学していた僕は久しぶりに広瀬川を見に行った。当然、あのとき溺れた澱みは存在しない。川はその様相を年ごとに変えるのだ。その風景が残っているはずもなかった。
 残っているはずもなかったのだが。
 記憶の中にある、あの風景が目の前にあった。あの川辺が。あの澱みが。
 僕はあのとき同様にしゃがんだ。そして、澱みを覗き込む。すると、背中に手の感触。記憶が蘇る。
 ――あの時、僕は姉に背中を押されたのだろうか?
 広瀬川の澱みに沈みながら、僕はそんな事を思った。助けてくれる父はもういない。