『狭間にて』/紅侘助

 「舞殿」を設えた早池峰神社社務所内は、真冬にも拘わらず熱気に溢れていた。岳神楽の正月舞初めは、神楽目当ての人のみならず初詣客も手伝って大変な賑わいだった。
 幾度となく頂戴した御神酒のせいだけではあるまい。私は火照った体を少し冷まそうと、御符授配所脇の出入り口から外に出た。
 境内から延びる登山道口で暫し白い息を吐いていると、一人の少年が目の前に現れた。
 少年は暫く物珍しそうに私の顔を眺めていたが、ふいに満面の笑顔でひょいひょいと拍子を取って跳ね始めた。まるで神楽の真似をしているかのようである。私は微笑ましく思いその様子を見ていたが、少年が登山道を登り始めたのを見て些か不安になってきた。
 迷子になりはしないだろうか。このまま放って置いては危ない目に会うのではなかろうか。そう思い私は急いで少年の後を追った。
 思いの外少年の足は速く、距離は中々縮まらない。声を掛けるが少年は意に介さず、時折私の顔を見ては微笑むばかりである。
 神社から二十メートル強は登っただろうか。我々の脇を二人の冬山登山者が無言で通り過ぎた。そこでふと私は違和感を覚えた。
 山では互いに挨拶を交わすのがマナーであるが、登山者は我々に注意を向ける素振りを一切見せなかった。いつの間にか辺りは全くの無音である。社殿の外まで大音声で鳴り響いていた太鼓やテビラガネの音が全く聞こえない。混乱した頭を抱えていると、いつの間にか私の横に正装した神職が立っていた。
 神職は無言で少年と対峙した。少年は暫く神職と睨み合っていたが、急に不満げに頬を膨らませるとすたすたと山道を降り、境内の人波に溶けて消えてしまった。神職は私に黙礼するとそそくさと社務所に戻っていった。
 あの少年が何者だったのかは杳として知れない。ともかく、招かれるままに軽装であのまま厳冬の山道を登り続けていたならば。
 今頃私はどうなっていたか分からない。