『山のカミサマ』/紅侘助

 動けない。体が全くいうことを聞かない。
 足下には体長十センチを超えるヤマナメクジの死骸が二つ、落ち葉と体液にまみれて横たわっている。私が踏み潰したものだ。
 小枝や落ち葉を踏む感触とは異なる違和感に踏み出した足を除けると、目に飛び込んで来たのがそいつらだった。不意打ちを食らい、驚きのあまり登山靴の硬い底をダンダンッと鳴らし、命を奪い取ってしまった。それからである。体が急に動かなくなったのは。
 真夏のブナの原生林は湿度が高く、全身の毛穴から汗が噴き出す。棒立ちのまましゃがむこともできず、次第に体力を消耗していくのが分かる。助けを呼ぼうにも声も出ない。
 このまま意識を失ってしまうのではないかと思われた時、ふいに耳元で「わんつか待ってへ。すぐ治らはんで」と女性の声が聞こえた。祝詞らしきものが長々と唱えられる中、両腕を摺られ続け、平手で背中をぱんと叩かれた途端すうっと体の戒めが解かれた。
 助け起こしてくれたのは、白装束に身を包んだ初老の女性だった。聞けばゴミソ、今で言うカミサマとして人助けをしており、毎日修行のため赤倉から登って来ているらしい。
 カミサマは怖い顔で、神聖な御山で余所者が殺生をしたことに山神様が臍を曲げたのだと諭した。助けて下さった御礼を言い、心から反省していると、彼女はヤマナメクジを見ながら「んだばって勿体ねっきゃの。咳さよぐ効くはんでな」と眉根を上げた。恐る恐る「飲むんですか」と訊くと、「生で丸飲みだじゃ」と快活な笑い声が返ってきた。
そこからはカミサマといっしょに登ることとなった。途中彼女に教わった「懺悔懺悔 六根懺悔 御山に奉じたい 金剛堂社 一日礼拝 南無帰命頂来」「一心」という唄と掛け声を口にしつつ、一歩ずつ足を進めた。
 そうしてついに私は、津軽富士の異名をとる霊峰、岩木山山頂の土を生まれて始めて踏むことができたのである。