『十二湖で』/小泉あきつ

 ブナの原生林で有名な白神山地の西には、十二湖と呼ばれる場所がある。そこには、様々な大きさの三十三個の湖沼があるらしい。
 私は観光に来ていた。お昼時に飛び込んだ古ぼけた食堂は、観光客で賑わっていた。

「驚いたね」
 隣から、白髪混じりの男が声を掛けてきた。男も一人旅のようだった。
「昔はさ、この辺りまで来る奴なんて、あまり居なかったんだよ。今は観光センターまである。随分変わっちまったよ、なあ」
溜め息をつくと、小ぶりのサザエの身をくるりと剥がし、深緑の部分に齧り付いた。
「三十年前にも、ここに泊まったんだよ」
 この食堂は民宿も兼ねていた。
 
男は、ゆっくりと視線を窓の方に向けた。
「ちょっとあってね。死のうと思ったんだ」
 ここは二階だった。窓から濃い緑の水が見えた。食堂は大きな沼のへりに建っていた。
「そこから飛び降りたんだ。吸い込まれるようにずんずん沈んでいったな。淋しかったよ」
 つるりと手で顔を撫ぜた。
「ふと気がつくとさ、身体が変わっていくんだ。腕が溶けて短くなった。手の平は半透明になって胴から生えたよ。皮膚がひび割れて鱗になった。足はくっ付いて一つに…」

 私は男の顔を、そっと覗き込んだ。
「実は、ここで見てました。この沼には種類が分からない大きな魚が沢山いました。泳ぐこともなく、水面近くを静かに浮かんでいました。あなたは、その内の一匹になったんですね。親は幻の魚イトウといってました。でも、もう全然居ない。どこに行ったんですか」

 サザエの殻がころりと転がって、テーブルから落ちた。私は、拾って皿に戻した。横を見ると、もう男の姿はどこにも無かった。