『浅春の家』/西村風池

 私が遠野に訪れたのは三月初めの浅春だった。寒風に吹かれながら里山を散策していると、小高い丘の上に豪壮な茅葺きの曲がり家を見つけた。『見学自由』とある。傍で小さくヒヒン、と鳴き声がした。馬小屋か。だが小屋の中には藁ばかりが散乱して馬の姿は見えない。家の中はしんとしている。黒光りのする長い廊下は奥へ行くほど暗く寒くなる。座敷に入るとなお寒い。家人がいない。
 部屋と部屋は襖で仕切られている。襖を開けると誰もいない。また次の襖を開けても誰もいない。この繰り返しできりがない。
 一体幾つ部屋があるのだ。大きな家だがこんなに部屋数があるのも妙だ。幾つ目の襖を開けただろうか。襖の向こうで人の話し声が聞こえた。そっと襖を開けると温かい空気が流れてきた。囲炉裏を囲んで数人の人がいた。
 中年の女性が微笑を浮かべながら昔話を語っていた。囲炉裏を囲んで座した老人や子供たちが茶を啜りながら彼女の昔語りを聞いている。誰かがお茶の入った湯呑みを私に勧めた。囲炉裏端で熱い茶を啜ったが、なぜだか少しも体が温まらない。
「昔あったずもな……」オシラ様の話らしい。方言はわかりにくいが私の頭の中にはその情景が鮮明に浮かんでくる。馬と娘が夫婦になったが、父親の怒りに触れて馬は首を切られて殺された。娘は悲しんで切られた馬の首と共に空に昇り去る。そしてその時からオシラ様は神となる──。
 語り部の女性の声が何とも心地よいので、うっとりと聞き惚れてしまった。
 語りが終わって拍手が鳴り止むと、人々の小さなざわめきが次第に遠のいていった。
 気がつけば私は、空の湯呑みを持ったまま独りで座敷に座っていた。さっきの語り部が何の話をしていたかもう忘れた。この家から早く出た方がよさそうだ。外に出ると、鉛色の空からちらちらと雪が降っていた。
 遠くでヒヒン、と馬の鳴く声がした。