『寒戸の女』/高橋史絵

 あの日も風が烈しく騒いでいた。
 黄昏時は人の心を弱くして名を呼ばう声に不思議とも思わず振り返る。黒々と した木陰を作る梨の樹の下。とまる朱塗りの女籠の戸が音もなく開き中から差し 招く黄金色の扇に誘われ私は草履を脱ぎ捨て籠に収まった。
 あれから幾夜が過ぎたのだろう。女籠で運ばれた屋敷での暮らしは不自由はな いけれど辻褄の合わぬことばかりで私が寒戸で学んだ道理を奪う。「寒戸にかえ したまえ」と願う私に扇はいつも「宿世ノ縁」と返す。「人と扇に宿世の縁など あろうものか」と怒りをぶつければ浮かぶ扇の下の畳に数滴の雫が落ちた。なぜ か酷いことをしたように思えた。膳をともにし褥をともにし時に扇を罵る日々を 送り、私は身ごもり額に小さな角を持つ男子を産んだ。「もう嫌だ」と思った。 屋敷の隅々を探し蔵でみつけた朱塗りの女籠に収まり私は「我を寒戸にかえした まえ」と願った。ごうっと風が吹いた。籠がごとりと揺れた。
 風が懐かしい寒戸の匂いを運ぶ。籠の戸を開ければ傍らに立つ大きな鬼の姿に 仰天した。悲愁漂う顔で見つめる鬼から逃げるように私は父母の待つ家へと走っ た。体が自由に動かぬのは長いこと野良仕事をしていないせいだ。息がこんなに 切れるもの、胸が激しく痛むのも。でも懸命にふる腕はどうしてこんなに乾いて 皺がよっているの、どうして薄茶色の染みが浮いているの。まるでまるで……。
 懐かしい我が家からは人々の賑やかな声が聞こえ、「ただいま」とその中へ飛 び込んだ私を迎えたのは喜びの歓声ではなく驚愕の沈黙だった。沈黙を破って父 が私に尋ねた。
 「あんたはどこの婆様かね」

 梨の樹の下で鬼は待っていた。泣き濡れた私の顔から目をそらし、懐から黄金 色の扇を出してうちふるった。
 「帰ロウ」
 風が烈しく吹いた。