『北帰行』/山村幽星

 はるばる、気になることがあって、電車を乗り継ぎ帰ってきた。旧家といわれる家は森閑としていた。広い家に姉が一人で暮らしていた。観光客があると、なかを拝観させていた。戸を潜ったなかが土間になって、上がったところに帳場の跡が残り、離れて囲炉裏が切られ、自在鈎が吊りさがっている。おくに居住の部屋と縁がある。縁に座り、靴脱ぎ石に足を下ろしていた。呉竹が植わり、薄が茂って、隣りの庭との境を仕切っている。
 姉は望まれて嫁いでいった。子ができずに、不愉快なことがあってもどってきた。親子で暮らしていたが、父につづいて母も他界して、一人とり残されることになった。家を守って行くから、なにも心配はいらぬという。静寂のなかにとり残されていると、庭の陰から人影が立ち現れそうだった。ここを離れずとどまっていたら、書画骨董に取り囲まれていただろうか。父の姿が浮かぶ。
 姉は、母譲りの食事の世話をしてくれて、楽しかった子ども時代が蘇ってきた。話しかけても、姉はどこかよそよそしい。別人のようだ。夜中に人がひっそりと動く気配を感じて、目が覚めた。耳を欹てると、どうやら階段を上がっていくらしい。予感がして、廊下に出て、姉の寝所をそっと窺うと、布団は空だった。
保存された家のほうへ出て、そっと階段をあがっていった。ときどき板がきしむ。立ちどまり、姉の秘密を探ってもなんになるだろうと自問した。しかし、なにか訳のあることかもしれない。庭に面した二階の客間から灯りがわずかにもれていた。
 そこから、低くつま弾く音が微かに響いてきた。父が趣味でやっていたことだ。そういえば、母にならい流麗なかながきで俳句仲間にも加わっていた。これ以上は踏み入るまい。姉は、旧家の霊とともにある。あくる朝、慌ただしく暇乞いをすると、みちのおくから、遠い都へ帰って行った。