『子供に手を引かれ』/料理男

 山歩きが趣味の従兄弟が話し始める。
「結婚前、出羽三山を巡った時のことだ」
 予定よりかなり遅れていた従兄弟は無理をし、山中で日が暮れてしまった。ただでさえ薄暗かったのが、今は自分の手の平さえはっきりしない。出発前に確認した懐中電灯も点かず、さすがに途方に暮れていた。
 と、袖を引っ張る者がある。目線を下げると、幼い女の子が「こっちこっち」と引っ張っていた。こんな場所になぜ子供が、などと訝しむ前に、気付けば手を引かれていた。太い人差し指を握る小さな手は温かく柔らかく、包み込むような安心感があった。「こっちこっち」と引かれるままに山道を急ぐ。
「昼間でも出さない速さだったと思う」
 そう、従兄弟が笑う。
 終始フワフワと夢の中にいるような心地でどれだけ歩いたものか。車のクラクションにハッと我に返ると、いつの間にか、峠を越えた先の町に佇んでいるのだった。人差し指に感触だけを残し、女の子はもういない。
「あの時の感触は、十年以上経った今でもはっきり残っているんだ」
 懐かしそうに指を撫でる従兄弟。
「まあ、こんな話誰も信じちゃくれないだろうから、家族にも話したことはないんだけどな。おまえが初めてだよ」
 もしかしたら、従兄弟自身も半信半疑なのかもしれない。笑顔が少し寂しそうだ。
 その時、廊下にトタトタと可愛らしい足音が響いた。飛び込んできたのは、今年三つになったばかりの従兄弟の娘。内緒話をするように、そっと私の耳元に口を寄せてきた。
「あのね、あたちがおとーしゃんをたしゅけたの。こっちこっちって、ひっぱって」
「え?」
 驚く私に、彼女はいたずらっぽくウインクして見せた。
 愛娘のぎこちないウインクを見て、従兄弟はただ優しく微笑んでいる。