『箸』/剣先あおり

 主人には不思議なところがありました。時々ふといなくなったかと思うと数日経てば戻ってくるといったことを何度か繰り返していたのですが、それは決まって事業がうまくいかなくなっていたときでした。始めは女が出来たのかと思っていましたが、そんな余裕もありませんし、妻の私が言うのもなんですが女の人にもてるタイプとは思えません。人はいいのですが普段からぼうっとしていることが多く、本当にこの人で社長が務まるのかハラハラすることも一度や二度ではありませんでした。ですが、不思議と仕事は入るのです。
主人の人徳なのかもしれませんが、反面騙されたり不渡りを掴まされたことも度々ありました。でも主人が姿を消してまた戻ってきて暫くしたら事業の資金も何とかなっているのです。普通に考えれば金策かと思うのですが、お金を持って帰って来た様子もなく、むしろ仕事が向こうから来ると言った感じでした。泥棒に入られた時など運まで取られたかのように一気に事業が傾きましたがそれでも主人が戻ってくると再び持ち直しました。
 最近では主人も「俺がしっかりしていればなあ」とか「何度も持ち出すのは気が引けるんだけどなあ」と呟くことが増えました。そういえば主人が帰って来た後は家の中の物が増えていました。杯であったり、茶碗であったり、箸であったり。その茶碗を割った時には普段温厚な主人が烈火のごとく怒りました。あれには驚きました。
 思えば家の盛衰と主人の数日の失踪、見慣れない家財に何か繋がりが有るような気がします。主人は心不全でそのまま亡くなったのですが、その少し前に私の前に箸を差し出してこれを自分と思って大切にするようにと言いました。誰もいない家から持ち帰ったもので主人しか知らない場所だそうです。でも今は私もそこを知っています。夢の中で主人が導いてくれた通りに行ったらその通りありました。勿論どこにあるかは内緒です。