国東『おれはお前の還る場所であり続けよう、たとえ月光の書斎を持たなくとも。』

 垂れた最初のしずくは落下しながら小さく結晶して机の上で強く跳ね、思わず受けた掌のうえで、ぬめりのある小さな黒い4ツ足の何かが、月光を浴びきちがいじみた産声をあげた。
 それは次から次へと口の端を伝い舌を乗り越え転び出て、あっという間、先刻まで白紙だった原稿用紙の上は奇妙な黒いいきものともしにものともつかぬものどもの騒がしい渦となり、その中に幾つか、死んだ婆さんから繰り返し聞かされたあれやこれの姿を見つけて、おれは何かの産婆になったのだと合点した。
 ざわめきの中、テ、と聞こえて反射的に両手を返せばまるで雨上がりの水溜まりのよう、現実より数倍くっきりとした青空がそこにはあった。肌に転写された忘れもしないいつかの空、だから声が再び聞こえたとき迷いようもなく、ダシテ、と彼女の声が引き金となった。
 吐瀉物はとめどなく落ち、激しく散る。裏返って飛び跳ねて、黒いなにかが産まれて行く。
 おれは彼女を呼びながら、青空を映した手を喉の奥へと突っ込んで、結晶と未だ成らぬ血と泥の塊を引き摺り出した。先に産まれた黒いものたちが、慌てたふうに未成熟の弟妹たちを掻き集めていく。
 喉の奥で冷たい指先に出会えば、おれが掴み出すよりも早くウジ虫のようにくねり歯をよすがに世界へと出たがったが、蠢く指を見た途端、小さいものたちは耳を塞ぎ目を閉じ、手の足りぬものの口を塞いで一斉に、書斎の暗がりへと身を潜める。
 見慣れた指は激しく身を捩りおれを裂いてこの世に再び産まれようとしていた。
 おれもまたそれを望んでいたかもしれぬ。
 が、黒い足が蹴り飛ばし揺れていた鉛筆がカタンと落ちて夢想は途切れ、口の中に彼女の爪がひとつと半だけ残った。桜貝のようなそれを無意識で舐めながら涙と鼻水をぬぐって顔を上げれば、夜の中、窓の外、白い朝顔が狂い咲き。
 それらは興味津々、ながいくびを伸ばしておれの顔を凝視していた。