時貞八雲『薄墨の笛の音は今』

 太陽がちょうど真上に昇った。夏なら暑いのだろうが、木々が色気づきはじめた秋では肌寒さを感じた。
 砂がざらつく石段を上り、私が高館義経堂の前に来ると、男が一人怪訝な表情を浮かべながらこちらを見ていた。えらく小柄な男だった。
 私が不快感を表すように眺め返すと、男は取り繕うように笑顔を作った。
「こんばんは」男が言った。「別に悪気はなかったのですが、気を悪くしたのならすいません。気になる事があったもので」
「いえ、いきなりだったもので」
 私が愛想笑いを浮かべながら答えると、男は安堵の表情を浮かべた。その後、二三会話を交わして見ると、最初に感じたような不愉快な人物ではなく、意外と人の良い男だとわかった。
 しばらく二人で語り合った後、私は男が言っていた気になる事について尋ねた。「そう言えば、最初に気になる事があると言っていましたが、何かあったのですか?」
「実は、笛の音が聞こえるのです」
「笛の音?」
「ええ。最初はどこから聞こえてくるのかと辺りを見渡したのですが、この場には私しかいません。誰もいないんですよ。一人気味悪がっている所にあなたが来たもので、もしかしたら笛の主かと思いまして」
「たしかに気味が悪いですね」
「ですが、今は気味が悪いとは思わないのです。もしかしたら、義経が吹く薄墨の笛の音だったのではないか、と思うんですよ」
 そう言って男はにこりと微笑んだ。
義経ですか」私は高館義経堂に目をやった。「彼は今、誰のために笛を吹いているのでしょうか」
「私達ではない誰かですよ。きっと――」
 男はそれ以上何も言わなかった。私も聞かなかった。聞かなくても後に続く言葉がわかったからだ。
 私の耳にも薄墨の笛の音が聞こえてきたのは、石段を降りた時だった。寂しげな旋律だった。私は振り返る事なく、男と共にいつまでも笛の音を背負い続けた。