松音戸子『クニマス』

 膝の手術で入院中、クニマスが見つかったというニュースを見た。
秋田県田沢湖の水質が国策により変化したせいで、絶滅したと思われていた淡水魚。そのクニマスが遠く離れた山梨県の西湖で70年ぶりに発見されたという。
 動かせない足に反して、私の心はある男を思い出して弾んだ。若かりし頃一人旅で訪ねた田沢湖での出来事だ。
 冬になりかけの寒い日だった。
 たつこ像の近くで写真を撮る恋人たちから隠れるように深い青を堪能しているとき、湖からあがってきた男を見た。
 ボロボロの着物を着て風呂敷を抱えた男が、浴槽からあがるように出てきたのだ。歯を食いしばって何かに耐えているような表情、大きな風呂敷からはいろんな書物が覗いていた。
 何度も振り返りながら男は道路を横切り、木々の間に消えていった。
 不思議と恐怖はなかった。ここに住んでいたんだな、と思った。そして出ていかなければならなくなったんだな、とも。青年の悲しげな後ろ姿、見ているこっちがくやしくなった。
 田沢湖に住んでいた青年が何を考えていたかは知らない。だが、この世から痕跡さえ失くしたと思ったものも、突然どこかで発見されるときがくることを、さっきのニュースで知った。
 あの青年の途絶えた想いが長い時を経て、誰かの心として息吹く日がきっとくるだろう。