新熊昇『北帰行』

 列車の窓には擦り硝子のような露が貼り付いている。明日の天童の催しでの対局の相手は朝一番の飛行機に乗るとのことだったが、私はこの夜行にした。
 かじかみそうな手を愛用の合皮の鞄に入れると、桐で出来た軽い箱に触れた。
 箱の中には錦の小袋があり、組み紐を解くと、中には飴色に輝く一組の将棋の駒がひっそりとしまわれていた。駒はガタゴトという振動に合わせ、微かにカチャカチャと音を立てて風変わりな、しかし味のある書体が揺らいだ。
(そうだ。これは私が受取るべき駒だったのかもしれない)
 将棋の世界には、夢叶わずプロになることが出来なかった弟子に、師匠が駒を贈って餞とする習慣がある。私の師は(こいつはとても見込みがない)と感じて、随分早くから餞別のための駒を用意していたと聞いた。
 どうもこの駒らしい。
 大方の予想を覆し、私は他の棋士たちの倍ほどの年月をかけ、年齢制限ギリギリで何とか四段になり、以後は目立たぬながらも棋士として充実した時間を過ごすことができた。
 ふと戯れに、窓に指で格子を描いてみる。、何時まで眺めていても飽きることのない八十一桝の格子の向う側に、師匠からの駒は受取らなかったもう一人の私が、対局中はずっとそうしていたのと同じ冷ややかな表情で、ジッとこちらを見つめ続けている。
 私の胸の奥は、山嵐の森、林のようにざわざわとざわめく。
(もしかしたら、廬生邯鄲一炊の夢、というやつだったのかもしれない。なぜなら、身に覚えのない駒が、いまここにあるからだ)
 再び鞄の中に手を伸ばすと、つい先ほどあったはずの駒箱は無くなっていた。私はホッとした。……ふと気が付くとそれは、窓に映った向う側の桟に、ぽつんと載っていた。