蜂葉一『散歩先の提灯小僧』

 ぽつり、ぽつり、と眼下のアスファルトに瓜状の黒斑が踊る。なんだろうか、ああ、靴跡か、と気づいた時には、すでに先行するそれをぴったり踏んで歩いている。見れば、自分の靴とサイズも形状も寸分違わない。
 まずいぞ、と。
 きっとまずいことになるぞ、とぬるい予感がするのだが、なぜだか靴跡からはずれて歩けない。通る道筋自体は、毎朝なじみの通勤路とおなじだ。足跡をなぞっているだけなのだ。ゆきつく先は、「いつもの駅」のはずだった。
 緊張によるのどの渇きを唾で濡らし、夢中で靴跡を踏みしめ、やがては忘我に陥る。
 しばらくのち、はた、と夢から覚醒したように周囲の光景が明瞭になる。
 なるほど、「いつもの駅」だ。
 平日午前八時ーーいつもは混雑しているはずの広い駅舎に、誰の姿もない。影も見当たらない。気配すら感じられない。発着のアナウンスもベルも聞こえない。
 そして、静寂に縊り殺されるような焦燥をおぼえながら、あなたはいつのまにやら見失ってしまったあの靴跡を探し求めるが、いったん逃したそれを二度と捉えることはできない。