山石千一『大木』

 頭上に覆いかぶさる枝に陽は隠され、不気味な薄暗さが辺りを支配していた。道を間違えたようだ。みちのくへの一人旅。湖の近くで山歩きを楽しむことにしたのだが……戻ろう。私は踵を返した。
来るときは道なりに真っすぐ歩いてきたはずなのに、戻る道は途中で二股に分かれていて、どちらから来たのか判断できない。仕方なく右を選ぶ。そう言えば、この山では行方不明者が……。キイッ、重い空気を切り裂くように鳥の鳴き声が響いた。汗が冷たいものに変わり、腹具合も悪くなってきた。下りを小走りになる。
 樹齢何千年と思える、でかい木に出くわした。てっぺんの方で大きな枝が左右に伸び、根もとは二股に分かれている。腹が、もう、我慢できない。適当な場所はないかと周囲を見る。その木の脇に幅や高さが一メートルにも満たない、祠のような小屋があるのを見つけた。
 観音開きの扉が開いた。必ずしも願ったわけではないが、なんと、そこには和式の便器があった。こんなところにトイレが整備されているとは。しゃがんで、頭を屈め、尻から入っていく。かたん。どういう拍子か扉が勝手に閉まった。真っ暗で何も見えない。腐敗臭も漂っている。
 早く用を足してしまおう。腕を後ろに伸ばすが、その腕を何かが押さえつけてきた。動けない。みしぃ〜みしぃ。上からも圧迫される。小屋自体が縮んできているとしか考えられない。潰される。
「助けてくれ!」

 叫び声は、彼の身体とともに便器のなかに押し込まれていった。両手を広げ、股を開いて、すくっと立つ人間のような形をしたその大木が、ざわ、ざわ、と揺れる。うまいものを喰って満足したかのように。