庵堂ちふう『波間/深羽子(みわこ)のこと』

 深羽子は、かつて通った高校の西棟の階段を上がっていた。まるで自分の意思で歩いているのではないような足取りだった。
三階から屋上へ出る手前の薄暗い踊り場に、大きな鏡があった。その鏡には人間ではないものの姿が映るという噂があり、生徒たちの寄りつかない場所になっていた。
 一つ年上の滋春と初めてキスをしたのは、高校二年の春、この鏡の前だった。半年もしないで別れて、二十四のときからまた付き合いはじめた。それから色々とあった。
 踊り場に来た深羽子は、鏡の前に立った。すると、そこには深羽子に見えているものとは別の光景が映り込んだ。階段には瓦礫が積もり、ひび割れた壁や天井からは水が滴り落ちていた。校舎は廃 墟のようだった。
 深羽子はあのとき何が起きたのか、ふいに思い出した。仕事の途中で車を停めて考えごとをしていたのだった。滋春のことと、孟洋のことだ。 直前にひどく大きな地震があって、なぜか自分が陥っている状況に決着をつけるよう迫られたような気分になったのだ。
 孟洋と激しく求め合うほど、滋春がいとしく思えてくることが自分でも不思議だった。まるで違うタイプの男というのではなかった。むしろ二人は似ていた。滋春といるときに孟洋のことを思い、 孟洋といるときに滋春のことを思った。
 深羽子の気持ちは決まらなかった。ただ疲れ切っていた。ふと、自分が母校の近くにいることに気がつき、深羽子は滋春との思い出に耽った。そのとき津波に襲われた。
 運転席にいた深羽子は、何かに押さえつけられたように動けなかった。ほんの一瞬、楽になりたいと思った。思い直したときにはもう遅かった。二人の間で気持ちが引き裂かれたまま、一人で死ぬ のだと観念した。
 深羽子が覗き込んだ踊り場の鏡には、深羽子自身の姿は映らなかった。深羽子は、もう一度二人の男のことを考えた。