庵堂ちふう『波間/滋春のこと』

 深羽子のことで話し合いに来たはずなのに、気がつくと俺は奴の首を絞めていた。
俺と深羽子はほとんど終わりかけていた。それなのに、こいつが俺から何もかも奪っていくように思えた。深羽子の他に、俺には何もなかった。何ひとつ。俺は狂った。
 奴の死体の傍らで、俺は縛り付けられたように動けないでいた。取っ組み合いの最中にひどい揺れがあったことが、あとからぼんやり思い出された。しかし、何であれ俺はもう終わりだった。
そのとき、建物が轟音にきしんだかと思うと、黒い濁流が流れ込んできて西田孟洋の部屋を飲み込んだ。俺は玄関ドアから外へ押し流された。訳も分からないまま、必死の思いで表の階段を上がり、腰まで水に浸かりながら手摺りにしがみついた。
俺は助かった。奴の死体は海へ引きずり込まれた。そして、深羽子は行方不明になっていた。海岸近くを車で移動中だったらしい。
毎晩、俺は海岸をさ迷い歩いた。その静けさが俺を責め立てるようだった。俺は自分のやったことに何の意味も見出せなかった。深羽子を返せと呪い、西田孟洋の遺体が見つからないことを願った。ときに理屈に合わない嫉妬に悶え苦しんだ。何度となく深羽子の後を追おうと思ったが、できなかった。まもなく、俺は耐え切れなくなって田舎を離れた。
夜になると俺の眠りは水に満たされる。水は黒く濁り、渦を巻いている。俺は呼吸を求めて必死であえぐ。
そのとき、水の中からぬっと腕が現われて俺の足を摑む。傷だらけの表皮がふやけて腐乱した腕だ。いくら蹴り払おうとしても、決して離してくれない。俺は暗い底なしの水の中へ引きずり込まれる。
俺はぐっしょりと汗をかいて目を覚ます。足には何かに強く摑まれた跡が赤くなって残っている。あの日俺がやったことを知る者は、誰もいない。