明神ちさと『ガッコ茶奇談 〜蓴菜〜』

「昨晩もあの人が――浩之さんが来たわ。優しい顔で。亡くなる時はどんなにか苦しかったでしょうに」
 両手で顔を覆う睦子が哀れで、佳代は姪っ子の肩にそっと触れる。やつれた感触に思わず掌を浮かしそうになるのを何とか堪えた。
「あなた達のことが心配で見に来るの。ほら、しっかり食べなさい。蓴菜じゅんさい)をお酢で和えたの。酸っぱい物、欲しいでしょう?」
 睦子は鼻をすすりつつ、それでも一箸、口に運んだ。
「懐かしい味……」
蓴菜は秋田の名産。沼縄(ぬなは)として万葉集にも歌われた高級食材よ」
「我が情 ゆたにたゆたに 浮きぬなは 辺にも沖にも 寄りかつましじ、でしょ? 古文の授業で何度も聞かされたもの」
 幼い頃の思い出話に、睦子の心はわずかに溶けかけたように見えた。だが、フッと目を伏せると箸を置いてしまった。
「私の心は、ゆらゆら揺れる「ぬなは」のよう、岸の方にも沖の方にも寄りつくことができない。それって……今のあたしと同じ」
 佳代は掛けるべき言葉を失った。魔物のような波濤に家族を町を根こそぎ奪われた姪っ子に何を言えば良いというのか? 此岸でもない彼岸でもない場所に、今、睦子はいるのだ。
蓴菜には、その茎や葉にはね――」
 やがて佳代は静かに言った。
「痛みを消す薬効もあるのよ。だから食べなさい」
 叔母の言葉に、睦子はトロリと優しい粘液に包まれた大地の恵みを再び啜る。彼女の痛みを癒すように、小さな命が腹の中でふるりと動いた。
 愛しげに腹に手をやる睦子の後ろに、佳代は浩之の姿を見て息を呑む。おぼろげなその姿は佳代に向かって一礼すると、彼女の涙が落ちる間もなく、透き通るように消えていった。