こまつまつこ『糠の中』

 母は漬物が得意で、我が家の食卓にはよく浅漬けや古漬けが並びます。全て自宅で漬けたもので、台所には大きな瓶に糠床が張ってあります。私は、どうせなら庭に畑を作って漬物用の野菜を育てればいいと言ったことがありましたが、その時の母はあまりいい顔をしませんでした。昔は我が家の庭にも畑があったそうなのですが今はありません。埋めてしまったのだと教えてくれました。

 私がまだ母の背中で寝ていた頃に、糠床から妙な臭いが立ち上ったというのです。もともと糠床は臭うものですが、母が言うには虫を焼いたような臭いだったと言います。数日前に漬けた胡瓜を食べてみると、ぐちゅっとした歯ざわりと、奥歯のほうで酷い苦味がして、母は驚いて胡瓜を吐き出したそうです。何事かと思い見てみれば、食卓の漬物から蛆に似た蟲が湧き出している。母は胃から酸っぱいものが込み上げて、思いがけず、その日の食事を全て床に吐いたそうです。その事を祖母に相談してみると、なんでも漬けた野菜のせいだろうということでした。

 首を傾げながらも母は、瓶いっぱいに張った糠に手を沈ませた。手探りで糠床の奥を混ぜっ返していると、指先に「どくっ」という手触りがしたそうです。肝のような触り心地だったと言います。大きさは自分の拳程で、やけに生温かかったそうです。引き抜こうとするとぬるりとした感触が手首を掴んだ。びっくりして手を引き抜こうとしても、それはがっちり母の手首を掴んで離さない。結局それは、母がその漬物を手離すまで離してくれなかったそうです。

 その漬物はどうしたのか尋ねると、母は糠床の入った瓶ごと捨てたと言っていました。祖母が言うには。畑の野菜に良くないものが漬いていたからだといいます。今でも母は、どうしても、あの糠床に何を漬けたのか、思い出せないそうです。