湯菜岸時也『夜釣り』

 七月、喧騒と夜毎に味わう熱帯夜に嫌気がさし、東京から抜け出して、久々に気のあった仲間と夜釣りを楽しもうと、釣り船に乗り込んだ。
 汗で濡れたTシャツが、涼やかな潮風に吹かれて心地よい。
 岩手の海は世界三大漁場に数えられるほど豊かだが、リアス式海岸の地形で沿岸部は波が荒いと聞いて、船酔いを覚悟していたのだが杞憂だった。その日は波が穏やかで目に入るすべてが別世界だ。夕日に輝く金色の水面が、月明かりに照らされる頃、今度は鏡のように漁船の明かりを波が映していく。
 なんて空想していたら、いきなり飛沫をあげて何かが飛び出してきた。坊主頭で不健康な肌色をした中年男だ。彼は必死の形相で無闇矢鱈と海水をかき回し、「助けて! 女房を探してくれ!」と、大声で救いを求めた。 
 ところが「浮き輪は!」と、騒ぐ俺達を尻目に、船長は竿で、溺れている男の頭を「えいや!」と前へ押すじゃないか。
 「何をするんだ!」
 その冷酷な仕打ちに誰もが驚いたが、グルンと男の体が反転して頭が水面に沈んだ瞬間、信じがたいモノを目にした。
 その男、胸までしか胴体がない。肺や心臓を魚に喰われて、空洞となった中身に小魚が泳いでいるような有様になっている。
 その様子は、まるで金魚鉢だ。
 船頭の話では、昔は釣鐘洞の洞穴に釣鐘型の岩があり、夫婦で死んだ亡者が、それを撞くと極楽へ行けたのだが、明治の頃、津波で岩が失われてから、時々、行き場を失った死者達が、生者に対してあんな悪戯をするようになったらしい。
 亡者は手の力だけで元の状態に戻ろうと奮闘していたが、生憎、胸から下がないので上手くいかない様子だ。そのままゼンマイの玩具のように激しく前後に揺れながら、漆黒の闇に閉ざされた沖へ流されていった。