猫春雨『とこはるバァ』
もう五十年以上も前のことです。真冬ともなれば風雪に閉ざされ外出もままならぬ。私は、そんな山間の村で幼少期を過ごしました。
私の両親は離婚しており、母は私を実家に預けて町まで働きに出かけていました。
吹き荒ぶ寒風の所為で外に遊びに出かけることも叶わず、囲炉裏の炎に寄り添って春を待ち侘びる毎日でした。
ある日のこと。わらぐつを編んでいるお祖父さんと一緒に炉端で炎に当たっていると、どんどん、どんどん、と引き戸を叩く音がしました。
初めこそ風と決め込んでいましたが、あまりにも執拗なので本当に人が居るのではないかと思い始めました。
お祖父さんにそのことを告げると「とこはるバァ」なので気にするなと云われました。とこはるバァが一体何者か聞いても人でなしとだけしか答えてくれませんでした。
それから数日後、お祖父さんたちが寄り合いの為、私独りで留守番をすることになりました。お祖父さんには戸を叩かれても出るなとだけ強く言い含められ、裏からつっかえ棒で戸締りまでさせられました。
誰が居ようが居まいが相変わらず炉端で過ごします。囲炉裏の炎はあたかも春の日差しのようでした。しばらくしてうとうととしていると、戸が激しく叩かれました。その音に目が覚めた私は、とこはるバァが来たと思ったのです。
そろりそろりと戸の方へと向かい、聞き耳を立てました。
するとどうでしょう。真冬にかかわらず小鳥のさえずりが聞こえて来るではありませんか。しかも、甘い花の香りまで漂って来るのです。
その次には好奇心に操られるままにつっかえ棒を外して戸に手をかけていました。
そして、がらっと引き戸を開けると――山桜の花びらが一斉に吹き込んで来たのです。
私は手足の感覚が失われつつあっても、春の陽気に夢心地で佇んでいました。
そしてお祖父さんたちが帰って来た時には手足が凍傷で壊死していたのです。