猫春雨『マヨヒビト』

 どなたかいらっしゃいませんかと私の中を覗き込む者が居た。
 背嚢を背負った中年の女だった。
 女は玄関のたたきでしばし逡巡していたが、やがてお邪魔しますと云って上がり込んで来る。
 常居の火鉢で湯がたぎっている鉄瓶を見て、やはり人が居るのではとでも思ったのか、すみませんすみませんと何度も家人を呼んだ。しかし返事はなく、女は思い立ったように隣の座敷に繋がる襖を開けた。
 そこには黒いお膳が座敷の中央を囲うように並べられ、空っぽの朱色の椀が乗せられていた。
 女はまぁ綺麗とうっとり眺めていたが、何やら物足りなさそうな表情になると、座敷を出てしばらくうろうろとし、台所を見つけると手を打ち鳴らして喜んだ。
 備えられていたわらじを履き土間に下りると、醤油樽や味噌樽の中身を確認し、調味料は揃っているわねと独り言ちて勝手口から表に出て行ってしまう。
 次に戻って来た時には白菜やら大根など、庭の畑から収穫したであろう野菜をかかえ込んでいた。
 それらを台所に置くとまた外に出て行き、今度は絞めた鶏を手に提げて戻った。
 さてと腕まくりをし、慣れた手つきで野菜や鶏肉を調理する。
 そして出来た料理を空っぽだった朱色の椀に盛りつけていった。
 座敷には良い香りが漂い、湯気が立っていた。
 その光景に女は満足そうに頷くと、自分は座敷の端のお膳の前に正座して、いただきますと料理を食べ始めた。
 しばらく箸が椀に当たる音や汁をすする音だけが聞こえていたが、女が箸を置きごちそうさまと手を合わせると湯の沸く音だけを残して静けさが戻った。
 女は表で自分の使った椀を洗い、元の場所に返すと、まだ冷める気配のない料理を見つめながら召し上がってくださいねと一礼する。
 そして背嚢を背負い玄関から出て行くと、二度と戻って来ることはなかった。