崩木十弐『迷い田』

 おぼろ月夜だった。
 その日残業で遅くなったFさんは、バスを降りて、普段やらないのだが近道しようと田んぼに踏みいった。ここを横断すれば家までかなりの短縮になる。乾いた刈田なので靴を汚す心配もない。
 暗いあぜ道をしばらく歩いたところでFさんは怖くなってきた。近道のはずが、ことのほか時間をくっている。さっきまで正面に見えていた民家の灯がいつしか消え、たよりは遠くにぽつぽつ燈る街灯ぐらい……。同じ所を繰りかえし歩いている錯覚にとらわれる。あぜ道がぐにゃぐにゃ曲がっているようにも思える。足をとめればよけい不安が増すような気がし進みつづけていると、向こうから人影が近づいてきた。
 こんばんは。
 自分と同じサラリーマン風の男が挨拶してすれちがう。酔狂なひとがいるもんだな……とFさん、他人のことはいえないのだが、たすかったと思い、男を呼びとめ道を訊く。男が指さす方向にFさんは曲がった。
 だいぶ行くとまた人が歩いている。今度は老人で、Fさんの前を横切るようにノソノソ進んでいる。呼びとめ道を訊くと、軍手をはめた手で自分の後ろをさすので、そっちに向かった。また少し行くと水商売風のケバい女とすれちがい、彼女のしめすほうへと進む。
 農閑期は抜け道として結構使われるらしい……見わたすと広い田んぼの所々に、歩く人影が認められるのだった。
 あう人みな親切に教えてくれるが、そのわりいつまでたっても出られない。
 Fさんがようやく田んぼを抜けたとき、明け方近かった。足が棒で、靴とズボンは泥だらけだ。しらふでなぜ六時間も迷ったのか、大いに悩んだ。
「日が暮れてから余所の田んぼに入るとカカシにばかされることある」
 齢九十六になるFさんはそう語った。