岩里藁人『書痴(とも)有り、深淵(えんぽう)より来たる』

「あっ」いつも通り無造作に冊子小包を開け、思わず声をあげた。手が震える。角礫岩『些戯伊誌異考』――間違いない、それは私が生涯かけて捜し求めていた稀覯本だった。
 著者は柳田國男門下生の偽名と言われている。炉辺叢書の一冊として刊行される予定だったが、危険思想を孕むために中止、少部数刷られた私家版も失火に遭って、世に数冊も残っていないという曰く付きのものだ。五年前、某百貨店の古書市に出品されたとき、私は祈るような思いで抽選に参加した。しかし、落手したのはFという男であった。Fは食費を削って稀覯本収集に明け暮れているという書痴で、私の最大のライバルだった。何度も煮え湯を飲んだり飲ませたりした間柄だが、あの時ほど恨めしく思ったことはない。
 そのFも、もうこの世にいない。あの津波が蔵書もFも、すべてを持っていってしまった。『些戯伊誌異考』も失われたものと諦めていたのだが。それがどうして此処に? 小包には印刷された宛名シールが貼られているのみで、差出人の名もない。私は首をひねりつつ、本棚の一番いい場所にそれを収めた。
 その夜、夢枕にFが立った。寂しげに痩身を揺らめかせている彼を見て、私は今までの因縁をすべて忘れて謝罪したくなった。……すまない、正直に言おう。さっき本を見た時、君の無念を悼むより先に、ただただ嬉しかった。書痴の業と嗤ってくれ。しかし君なら判ってくれるだろう、いや、だからこそ、あの大切な一冊を私に届けてくれたのではあるまいか……そう言いかけて、気付いた。Fの目に、書痴独特の暗い焔が宿っていることに。
 厭な汗をかいて飛び起きた私は、書斎へと走った。潮の香がする。夢の続きではない、足元がビチャビチャに濡れている。訳のわからぬ咆哮とともに書棚の扉を開けると、どっと水が溢れた。潮水はあの本からこんこんと湧き出し、私の最も大切な蔵書すべてを、まるで舐め回したように濡らしていた。