鬼頭ちる『救出』

 よくある話だった。婚約者が浮気し、その相手が無二の親友だった。奴らは自分たちこそ“真実の愛“だとか”運命だった“とか現を抜かし、平然と私の元を去っていった。
『死ねばいいのに。地獄におちろ。不幸になれ』私は唱えた。
 それから私は、誰ひとり待つ者のいない東北へ帰った。就職し新しく始まった生活は、これまでの私を何ひとつ変えなかった。私は、あの言葉を絶えず繰り返し、生きた。
 だからあの時、避難せずひとり残っていた事務所に冷たい海水が入ってきても、怖くなかった。それどころか、己の死の瞬間にまで必死に唱えた。意識が遠のいていく。
『死ねばいいのに……地獄におちろ……不幸になれ……』
「わかりますか? おい、生きてるぞ!」男性の、はっきりした声が聞こえる。そっと目を開けると、目の前にあの男の顔があった。私を裏切った男の顔。咄嗟に振り払った。
「落ち着いて」「もう大丈夫ですよ」「寒くないですか?」
 何なんだ? これは夢なのか? 夢なら、非道い悪夢だ。だって、子供も大人も老人も、男性すべてがあの男の顔をしているのだ。女性も、こともあろうにすべてあの憎い女の顔に見える。もう気が狂いそうだ。私は次々に差し出される数多くの手を、頑なに拒否し続けた。しかし、どうしてだろう。彼らは、とてもやさしかった。
 やがて冷静さを取り戻した私は、やっと気づいた。そうだ、奴らがここにいるはずがない。これは幻覚だ。そうだ、何か言わなくては。そうだ、大切なあの言葉を伝えなくては。
『ありがとう』その瞬間、男性からあの男の顔が消えた。
『ありがとうございます』女性にそう伝えると、あの女の顔もすっと無くなり、本当の顔が無言で抱きしめてくれた。
 あれから私の世界は変わった。たまに思い出す悪夢も、夫と子供の笑顔で消え失せる。汚い言霊も美しい言霊も、私を救出するのにきっと必要だったのだ。