田磨香『糸水』

 父の記憶はなく、貧しい母子家庭に育った少年時代。上手く周囲に馴染めなかった僕の、Dはたった一人の友達だった。
 青森から転校してきたDもまた、それがひどく中途半端な時期だったことと、訛りによる言葉の壁が災いして、上手く周囲に馴染めず、僕だけが友達だった。
 ある冬の日。いつものように、Dの家で遊んでいた時である。Dが突然、神妙な顔をして黙り込んだ。何事かと思っていると、やがて意を決した顔で立ち上がり、ついて来てと言って歩き出した。
 連れて行かれた先は、台所だった。蛇口から、細い糸のように、水が垂れている。Dはギュッと栓を閉めて、その糸を切った。
 見てて、と言ったDの声は、少し震えていたように思う。そして、一分と経たずして、ひとりでに栓が回り、蛇口からはまた糸状の水が垂れ始めた。
「おばあちゃん」
 二度、三度と同じことを繰り返したあと、四度目に、Dは呟いた。Dのいた青森では、あまりの寒さのために、水道の水さえ凍ってしまう。それを防ぐために、こうして水を出しっぱなしにしておくという。もう何年も前に亡くなったおばあちゃんがついてきているのだと、Dは言った。
 秘密だよ、と微笑んで。
 ああ。二人だけの秘密だ。
 仕事を終え、家に帰れば台所の蛇口から、細い糸のように、水が垂れている。
「少しずつ出せばメーターが回らなくて、水道代が節約できるのよ」
 母はそう言って、常に水を少しだけ出しっぱなしにして、貯めて使っていた。
 細い糸のような水。それは今はもうどこにいるかもわからぬDとの変わらぬ友情のようで嬉しく、母の人生を思うと、少し悲しい。