大河原朗『感触』

 胸のあたりがもぞもぞする。それが左の乳房だったものだからキャッと軽く悲鳴をあげる。真っ暗な部屋に目を凝らしても誰もいない。時計は見えないが、深夜には違いない。
 気の強い性分だった。翌朝、男子青年部の宿舎に乗り込むと、寝ぼけ眼の男性陣に向かって「誰がやった」と睨み付けた。
 それが二人の馴初めだった。年頃の若い娘に首根っこを掴まれ「胸を揉んだでしょう」と迫られたら面食らうしかない。彼は当時を振り返り「一番顔のいいオレを狙ったんだ」と得意満面だが、彼女は「スケベ顔のこいつにちがいないと思っただけ」と鼻で笑う。
 なんだかんだで結婚にまで至り、子どもを授かった。分娩台の上、まだ羊水に濡れる我が子へ最初の母乳を与えたとき、彼女は「この感じよ」と声を漏らした。あの晩、左胸をくすぐった感触とまさに同じだったのだ。
 彼女は「あなたが生まれるためにママとパパを引き合わせたのね」と無心に乳房を吸う我が子に語りかけた。後から思えば気恥ずかしい言葉でも、生命誕生の神秘を体験した直後は、理屈を超越した実感があったという。
「世の中には不思議なことがあるのね」
 彼女はその後、家族三人で幸せな生活を送っている――と、話がこれで終わったのは一年間だけだった。
 腫瘍が見つかった。
 子どもが一歳を過ぎ、乳離れしてからも左胸にあの感触が残っていた。感動体験の余韻にしては長すぎる。母子検診で医者にその旨を告げ、精密検査を受けた。彼女の嫌な予感は的中した。
 ところが、たしかに腫瘍はあったが、初期も初期、自覚症状もないばかりか普通では発見するのも難しいほどに小さかった。運が良いと医者にも感心された。
「どこまでが偶然なんだろうね」
 彼女は我が子を抱きながら笑う。もう左胸にあの感触はない。