高柴三聞『家守になったお父さん』

 ある村の外れに親子が住んでいました。父と年頃の娘の貧しい二人暮らし。父は、朝から晩まで山に入り炭を焼いて暮らしていました。娘は、峠の小屋で一人お茶屋をして暮らしていました。娘は父が嫌いでした。卑屈で汚れていて何とも腹立たしくて仕方ありませんでした。ついつい強い口調で話をしてしまう事が度々でした。そんな娘が、父は怖くて仕方ありませんでした。いつも横目で娘の機嫌を窺って暮らす有様。
 ある雪の降る夜のこと。父親が、いつものように囲炉裏の前で背中を丸めて酒を呷っていました。娘は、飯を食うと、父親の前から消えるように床に着きました。家の中では親子の間を遮るものがありません。父が娘から隠れること、娘が父を避けることはどちらか一方が目を閉じることでしかできません。父が、苛立たしげに何か呟いて立ち上がりました。ゴトンと茶碗が音を立てて床の上に転がりました。いつのまにか父は酒臭い熱い吐息を娘の耳元に吐きかけながら娘の上に覆い被さっていました。暗い家の中に、犬の遠吠えのような叫び声が木霊しました。驚いた娘は、気が付けば壁を背にして座り込んでいました。娘の視線の先には、父の肉体だけが、ふわっと空気の中に溶けたかのように父の着物が床の上に落ちていました。娘が薄暗い暗闇に目を細めて見つめると小さな一匹の家守が壁の上を必死に逃げまどうように這い回っていました。そして、家守は、暗い天井の闇の中に消えていってしまったのです。
 それから、娘は独りぼっちで暮らしていました。村の人が父のことを訪ねると、娘は無言で家の天井を指さすのが常でした。そして指の先には必ず家守が一匹、落ちつきなく這い回っているのが見えたそうです。娘は長らく一人で暮らしていたそうですが、その娘も家を出て家守のいる家だけが長い間独りでに朽ちていくまで取り残されていたそうです。