大河原朗『帳面』

 紳士服売りの婆さんは懐に手を入れて青ざめた。商売人の命がないのだ。
「頭には全部入っている。でも他の商売人に万が一でも拾われたら大変だ」
 それには東北の村々の家族構成から祝い事、法事の時期まで細かに書いてある。家々を周り歩くとき、何気ない会話からそれとなく聞き出したものだ。今でいう顧客名簿だが、婆さんはただ「帳面」と呼んでいた。
 この先の村で来年学校を出る息子がいる。器量が良いから東京へでも進学するに違いない。そうなれば一張羅も必要になろう。そう計算したときは、まだ帳面は持っていた。
 来た道を早足で戻る。棒きれで道ばたの草を払う。枯れた用水路を覗き込む。そうこうしてようやく帳面を見つけた。それが沢の入り口の大きな石の上だったので婆さんは怪しんだ。腰掛けるにはちょうどいいが、こんなところで休んだ覚えはない。帳面と自分の着物を結んでいた紐はざっくりと切れている。
 目的の村に着くと酷く騒がしい。駐在所の巡査なのか、笛を吹きながら村の男たちに何やら指図している。遠巻きに見ている女たちの輪に入ると、あそこの家の息子が急にバタンと倒れた、まだ身体は温かいのに息をしていない、などと囁き合っている。勉強のしすぎかね、と聞こえたとき、婆さんはそっとその場を離れ、村から立ち去った。
「よそ者だからな。変な因縁つけられても困るし、売るもんも売れなくなった」
 婆さんは、そういいながらも、懐の帳面をもう誰にも渡すまいかと抱きかかえていた。そして、心底悔やんだ。
 あの息子の名前がこすり消されていた。何者かに見られたとしたら、償いきれる過ちではない。
 婆さんが商売人の命を捨てた、これが理由である。