『宵待ちの調べ』/紅侘助

 久々に昼夜「幕引かず」で行われる「通り神楽」が別当家で行われると聞き、始めてこの眼で間近に「裏舞」を目にすることができると、喜び勇んで大償の地に足を運んだ。
 陽の落ちる時分に別当家に到着すると、漸く神を舞殿に招く「打ち鳴らし」が開始されたばかりだった。私はお目当ての「裏式舞」の始まる頃合いまで時間を潰そうと決めた。
 敷地内にある釈迢空の歌碑の台座に一人腰掛け、手慰みに手近の草の葉を摘み、即席で草笛を拵えた。暫し童心に戻り、びぃびぃと吹き鳴らしていると、ふいに耳元で、びょーんみょーんと、私には聞き覚えのある弦の震える音が聞こえた。ムックリの音である。
 じっくり辺りを見回すが人の気配は一切ない。その間もムックリの音は低く高く鳴り響く。私は恐らく黒いチパヌプを頭に巻いているであろう音の主に、思い切って「イランカラプテー」と丁重に挨拶をしてみた。その言葉に驚いたのか、ムックリの音が急に途切れる。何だか悪い気がして、再び草笛を吹き鳴らし、「アムックリ ナシヌ ルスイ」と、もっと聞かせてくれるよう片言で頼んだ。
 やがて遠慮がちに弦の音が鳴り始めた。彼女の音に合わせて音階を変えて草笛を吹くと、くすくすと楽しげな笑いが漏れ聞こえ、一層弦の音が高まった。そうして私は、時間の許す限り姿なき乙女との競演を楽しんだ。
 去り際に私が「シノッアン ピリカ ワ イヤイヤレ」と楽しませてくれた礼を言うと、「イヤイライケレ」と恥ずかしげな囁きだけを残し、少女の気配は闇へと消えた。
 未だヤマトの権勢が及ばなかった時代、この地に暮らしていた者達の御霊は、今宵の神祭りを我々と共に愉しんでくれるだろうか。
 そんな想いを胸に抱きながら歌碑を後にし、私は今宵の神楽の舞殿へと歩を進めた。

 山のかみも夜はの神楽にこぞるらし まひ屋の外の闇のあやしさ 釈迢空折口信夫