『若松城』/湯菜岸 時也

岩手の工芸品、南部鉄器は砂を固めた鋳型に東北の風景などの絵柄を凹凸をつけて描き、それに溶けた鉄を流して製造されます。それが出来ると『金気止め』という工程で、ゆっくりと炭火で焼き錆び止めをして、それをヤスリで研磨して、仕上げに色を塗り、それで焼けた飴色の鉄から茶釜や鉄瓶が誕生します。
明治の終わり、ある親方に華族から茶釜の注文がありました。なんとも変わった依頼で親方の伊平は浮かぬ顔です。それもそのはず茶釜の材料となる鉄は、戌辰戦争で敗れた会津藩の武士が着ていた鎧――。
磐石という言葉は幻と同じ、日露戦争での勝利で浮かれる気分を戒める為だと薩摩出身の華族は言いますが、酔狂にもほどがあると伊平は唇を噛み締めました。実は伊平の生まれ故郷は会津、小間物屋を営んでいた両親が、まだ七つの伊平を連れて戦火の中を彷徨った辛い思い出があります。
降伏した藩士の処遇は過酷で、蝦夷に送られて開拓させられたり、悲惨だったと噂を聞いています。だがしかし……。故郷を蹂躙された哀しみは残るものの、維新は遠い過去となり、今更それをむし返しても虚しいだけ。ロシアを退けて、戦勝気分に酔いしれる世相の中で、華族の依頼を断る事など出来るはずがありません。仕方なく鎧を溶かしましたが、何度やっても穴がある茶釜になってしまいます。そうなると『炉に入れた時、確かに腹当に穴があった』と職人達が騒ぎ出しました。
「こどだ!(大変だ!) 官軍の弾で死んだ、侍の祟りかもしんねえ!」 
思い余った伊平は、非道を承知で、若松城を模様に入れて鋳型を作り、それに溶かした鉄を流しました。また仕損じたら絵柄とはいえ、命がけで守った若松城を火で炙る事になる。武士ならば武威を傷つける真似はしないだろう。見事に完成した茶釜の仕上げを見届けて、「なんたら、おもさげねごとを……」(なんという申し訳ない事を)と伊平は男泣きしました。