『松川達磨』/湯菜岸 時也

木下老人は酒瓶を片手に、桜が満開に咲く石段を上っていった。この時期、わざと彼岸を避けて、人知れず仙台に行くのが習慣となっている。其処に心ならずも斬った男の墓があった。彼が藩士だった久保田藩は、戊辰戦争時に参戦し、発足したばかりの明治政府に対抗したが、新装備を誇る政府軍は、陸奥、出羽、越後の新体制に不満を持つ諸藩からなる奥州越列藩連合を破り、武家社会は完全に崩壊してしまった。負け戦のあと木下には忸怩たる想いが残った。かつて江戸城無血開城する前日、旗本は早々に隠居して、幕府の危機に馳せ参じたのは子供だけだったいう話を知って、木下は武士の風上にも置けないと、彼らを嘲笑したものだ。
「しょしな奴らだ! やる気がね!」
《恥ずかしい奴らだ! やる気がない!》
だが時代は動かず、その想いとは裏腹に、木下は上からの命令とはいえ、味方であった仙台藩の使者を斬った。久保田藩は、明治政府側に寝返ったのだ。久保田藩も多大の犠牲者を出し、限界だった。だが――。
木下は見てしまった。斬った刹那、胴から落ちた首が地面にぶつかり、鮮血の中、達磨のように起き上がったのを……。後ずさりしたら、何時の間にか己の刀の鍔が蛇になり、右手に巻きついていた。木下は怯えて、そのまま蹲ってしまった。
すっかり血が抜けて蒼くなった首は、怒りで歯を食いしばったまま、久保田藩の侍を睨みつけた。まるで真っ赤な毛氈の上に置かれた達磨を連想させ、その場にいたものは皆、あまりの奇怪さに動けずにいた。怪異の恐怖よりも、武士の一分が大きく揺らいだ。武士の魂が堕ちた瞬間だと誰もが思った。
先ほどから背後に漂う視線が哀しい。息遣いまで聞こえる。仙台藩の犠牲者千二百六十六人の目が背中を見つめている気配がした。老人は後ろを振り返った。誰もいない、ただ風に煽られ散った桜が空を舞っていた。