『大八駒』/新熊昇

 慶応の末から明治のはじめ頃までのごく短いあいだ、天童の町で夜更け奇妙な物の怪たちの姿が酔漢に目撃された。それは、実際の対局に使われるくらいの将棋の駒が、『ひょこ回り』のように、銘の彫られた底面を地面に付けた王将を先頭に飛車、角、金、銀、桂、香、歩が整然と隊伍を組んで、会津若松方面へと進む姿だった。駒たちはまるであたかも小さな人のように「トコトンヤレナ」といったような音を立てながら「一、二、一、二……」と左右交互に踏み出して動いていた。
「そりゃあ、大八様の軍勢に違ぇねぇだ」
 噂を耳にした人々はそう言って夜中歩くときに足もとに気を配ったと言う……。
 大八様とは天童藩主の名代、吉田守隆のことである。鳥羽伏見の戦い以後、朝廷は佐幕派の筆頭である会津を追討するために薩長仙台藩の勤王派を鎮撫使として、家柄の良い天童藩主の織田信学にその先導を命じた。しかし信学は病弱。代わりに守隆が指揮をとることになった。守隆はかねてから下級藩士たちの窮乏を見かねて、上役たちの俸禄引割(現在の賃金カット)や特産の紅花の専売制を行い、加えて藩士たちに将棋の駒造りの内職を奨励したりしていた。「侍である我等が何故内職を……」と渋る者たちには「将棋は頭を使い戦略を錬るものであり決して武士の面目を損なうものではない」と説き伏せた。
 ところが会津に対して穏便な解決策を望んでいた奥羽諸藩と鎮撫軍は、鎮撫軍参謀の世良修蔵が暗殺されたことによって一気に険悪化、天童藩も先導を辞退することになった。
 守隆は親友である勤王派の大物・桂太郎桂小五郎とは遠い親戚)に何度も逃亡を勧められたものの藩分裂の責任を取って切腹した。享年三十七歳。将棋の駒たちが「トコトンヤレナ」とも聞こえる互いに触れ合う音を立てて進軍する幻は、明治維新になって守隆を祀り顕彰する天童護国神社が建てられるとピタリと止んだと伝えられている……。