『避雷針』/藤本桂悟

 日本には針供養などという行事があります。
何故、そんな事をする必要があるのでしょうか。その由来を私は知りませんが、モノにも魂が宿っていることは確かです。
 十数年ほど前のことでしたでしょうか、私は毎日雷の夢を見るようになりました。夢の中では激しい雨が降り、雷鳴が止むことなく続きます。そして、最後にもの凄く大きな雷鳴が轟いて目が覚めるのです。ところが、起きて窓から外を眺めると雲ひとつ無い快晴。そこでやっと、さっきのはただの夢だったのだと気付くのです。
 そんなことが二週間も続いたでしょうか。なぜか普通ではない気がして、どうしてこういう夢ばかり見るのか考えてみました。そして一つのことが思い当りました。ちょうど雷の夢が始まったころ、私は妻と二人で盛岡市の岩山展望台に登りました。市内を一望できる小高い山の上の展望台です。そこに一本の避雷針が立っていました。私は何気なくそれに触れてみました。特に深い意味があったわけでもなく、また、何の感慨もなかったので、すっかり忘れていました。
 避雷針に触れたことが潜在意識に作用したとか、そんなつまらぬことを考えてはいけません。モノにも魂が宿っているのです。そして、モノだって自分に起きたことの全てを記憶しているのです。避雷針のように想像を絶する過酷な使命を帯びたモノには、とりわけ深い想いが蓄積されています。あの避雷針は自分があそこで市民を守っているということを知ってもらいたくて、記憶の一端を私に見せたのだと思います。
 思えば、昔の日本人はモノにも魂が宿っていることを知っていました。唐傘お化けがいい証拠です。単なる童話だと思って馬鹿にしてはいけません。モノを粗末にしていると、いつの日かモノに仕返しされるかもしれませんよ。