『幻界灘』/不狼児

 半鐘が鳴った。
 二つ、三つ、二つ。最後に一つ、ひときわ高く。
 津波だ!
 ってんで、女房を探すと、姿がない。卓袱台がガタガタ揺れました。しかたねえ。悪いが先へ行くぜと逃げようとすると、足元が冷たい。ひたひたと、津波の先触れがもう押し寄せていたんで。
 見る間に嵩をまし、漣が震えて小さな水玉が透明な水面から跳ね上がり、霧となって散ったかと思うと、さあっ、と音もなく退いてゆき、あとはもうとんでもない大波が村全体をひと呑みにして、今じゃ跡形もありやせん。
 あっしは走って、走って、走りました。
 どこをどう逃げたものやら覚えちゃ居りませんですが、遠目に見た波の威容は忘れません。青線の垂直に切り立った崖でした。
 木も草も生えない、岩もない、魚は泳いでいるかもしれませんが、そんな断崖絶壁がゆらゆらとふるえながら猛然と近づいてくるのが、いやもう怖いとか、怖くないとか、圧倒されて、魂消たきり、ぬけがらだけで走って、走って、走って逃げてきたようなもので。
 あっしの魂は今もあすこに置いたきりなんじゃないかと思って居ります。
 何せあれ以来、住んだ村が消えたのは一度や二度のことではありませなんだ。
 海辺を避けて、山奥へ、隠し銅山に逃げてさえ、坑道の奥から湧き上がる水が鉱夫を巻き込み溢れかえり、潮のごとく山肌を流れ、すべてを洗い流してしもうたのです。
 知り合いはもう誰も居りませんので。
 女房ともあれっきり。皆んな津波に呑まれてしまいました。

 話を聞き終わると、私はお銚子を一本追加。
 彼に勧める。
 後に。
 男は豆腐の角に頭をぶつけて死んだ。