『かわひらこ』/屋敷あずさ

 記憶の欠片が呼び覚まされる。

 あなたは蝶を見ていた。
――ヤマキチョウ
 優雅な山吹の色が私の鼻先を掠めるようにちらちらと舞った。透きとおった純白の羽を日に輝かせた蝶がそれを追う。
――きれいだね
 蝶はただひらひらと私たちの目の前で幸せそうに戯れている。
 私は黄色い蝶をそっと両手で包み込んだ。
――逃がしておやり
 あなたの言葉に私は躊躇う。
 もしここで逃がしてしまったら。私の手から放たれた蝶は二度とこの手に戻ることはない。そんなのは嫌。私が望むのは唯一あなただけ。なぜそれがわからないのだろう。情が強い女だと皆が口を揃える。その通りだ。あなたが誰かと幸せになるなんて許せない。
 ならばいっそすべてを壊してしまおうか。
 気がつくと私は蝶を握りつぶしていた。

 ビロードのような艶かしい赤い燐粉が私の両の手にこびりついている。じっと見ているとそこからさらさらと乾いた音をたてて燐粉が溢れ出し私の身体を覆いつくしていった。どうしようもなく泣きたくなったのに涙は出なかった。かわりに肩甲骨のあたりがむずむずしたので身を捩る。視線が虚空を彷徨い一瞬の後ふっと身体が舞い上がった。

 じきに冬が訪れる。私は死んだように眠るのだろう。暗い岩陰で凍えながらこの奇怪な姿のまま。そうして目覚めればまた記憶が甦る。くり返しくり返し。どれぼど遠くへ飛ぼうともいくつ夢を結ぼうとも、赤い燐粉を身に纏った私の名を口にするものはいない。

 あたりに霧が立ち渡るように頭の中が次第に朧になっていき、私は微睡む。