『十和田湖に浮かぶ』/添田健一

 車に乗ってから、ふたりともどちらもなにもいわなくなった。後部座席。隣で夫は赤ら顔をさますべく、手で扇いでいる。
 式のあとは、ふたりとも酔っ払っているからとホテルに運転代行を頼んでいた。ハンドルを握る業者のひとはいくつかのやりとりののちに黙って車を動かした。
 夫ほど酔ってはいないわたしは出てきたばかりのレイクサイドホテルの広い玄関口を振りかえり見る。この日はわたしたちが出席したのもふくめて四組の挙式がおこなわれていた。にぎやかなひとだかり。空はみごとな秋晴れで、まこと慶事にふさわしい。
 車は湖畔の道を走っていた。もう少しあとの時季だったら、山の紅葉が青い空と湖面に映えていただろうに。湖水のきらめきを見つめる。「いい結婚式だった」と素直に感想を口にする気にはなれなかった。「美和子さん、きれいだったね」なんて、なおのこと。
 遠くでパトカーが集まっている。赤いランプの点滅。十和田湖は水深があるから、よく事件が起きるとも聞く。
 せっかくのおめでたい日なのにね、とつぶやきかけ、いや結婚式の晴れやかさの陰には、血の涙を流したり、ため息をついたりしている男女が少なからずいるだろう、と思いなおす。いま、わたしの胸のうちが不穏にざわめいているように。
 視線を湖面にもどす。ただならぬものが見えた気がして、目を大きくする。次の瞬間、夫もこちらに身を乗り出していた。
「どうしたの」いささか驚いて訊ねる。
「いや、いま白装束の女のひとが湖に浮かんでいるように見えて。水死体かと思って」夫は元の席に腰をおろす。「見まちがえだったようだ。お前には見えなかっただろ」
「ええ」とだけ答える。湖上から目を離さぬままに。わたしが見たのは湖面に大きくひろがる女の微笑だった。祝福では決してありえない、将来を見透かした満悦の笑顔。