『自炊宿』/千湖

 大学生の頃のこと、悩みを抱えリュック一つ担いで旅に出たことがある。当てもなくヒッチハイクや無賃乗車を重ねてたどり着いたのが、花巻温泉郷の奥にある鉛温泉だった。
 自炊宿があり、安く長逗留できたのだ。
 部屋は川に向かって窓が開けていて、すぐ下を流れる豊沢川の水音が、まるで降り止まない雨音のようにいつも響いていた。秋の初めだったが、木々の緑は旺盛で、向こう岸の林の葉がゆっくりと揺れるのを、何も考えず日がな一日眺めていたものだ。
 ある日、いきなり宿のあちこちから三味線や尺八の音が響きだした。稲刈りを終わった農家が骨休めにやってきて、ここで年に一度の演芸会を開くのだという。
 白猿の湯、という胸まで浸かるほど深い楕円形の温泉では、男性チームと女性チームが風呂の淵に腰掛け、裸で歌合戦をしていた。
 演芸会の小手試しだという。「あら、おにいちゃん、何はずかしがってんの」とでっぷりと太った色白の婦人に声を掛けられ、みんながどっと笑った。おどおどと湯に入った。かれこれ三十年以上前から、みなこの演芸会を楽しみに通ってくるという。
 彼らは実に陽気で、即興で歌の掛け合いをし、時にかなり卑猥なことも言ってどっと笑うが、方言がきつくてぼくにはわからない。
 古代の歌垣を思わせる歌合戦だった。
 その深夜のことだ。ふと目覚めると歌声が聞こえる。辿ってみると、白猿の湯だった。
 見れば、細身の可憐な少女が一人、澄んだ声で歌っている。遠慮しようとすると「あら、どうぞ」と呼び止められた。エイとばかりに裸になって湯舟に入った。すると、彼女がすっと近づいてきて、ぼくに肌をすり寄せた。
 ぼくはうろたえ、けれど潤んだ目で見つめられて抗えずとうとうそこで彼女と交わった。
 翌日、あのでっぷりと太った婦人がぼくを見て頬を赤らめ「おら、ゆんべ、ずいぶんええ夢、見だ」といって妖艶に笑った。