『わんこ蕎麦』/妖介

 わんこ蕎麦は盛岡より花巻で食べる方が「通」だというが、とうとう食べそびれてしまった、と思って車を走らせていると、暗い街道の遠方に、ふっと懐かしいような橙色の灯りが見えた。近くまで来ると、それが民家風のレストランだとわかった。闇の中、そこだけライトアップされた見事な茅葺き屋根。幟には「わんこ蕎麦」の文字も見える。
 わたしは車を滑りこませた。
「いらっしゃいませ」と出てきたのは、楚々とした美人だった。
「あの、お蕎麦……わんこ蕎麦、ありますか」
「もちろん。こちらへどうぞ」
 女は、わたしを奥へと案内した。囲炉裏で火がめらめらと燃えている。
「さあ、こちらへ」
 囲炉裏端に座る。盛んに火が燃えているのに、なぜか熱を感じない。目の前に小さな塗りの膳が置かれ、紅いたすきをかけたあの女が、すぐ脇に控えた。
「さあ、お好きなだけ」
 そう言われて食べ始める。一杯食べると、すぐによそう。もう一杯、もう一杯…。なんだか際限なく体に入っていく。しかし、それも限度があり、だんだんお腹が膨れてくる。
 速度をゆるめたいと思っても、女が許してくれない。「はいっ、はいっ」と女は髪を降り乱し、どんどんついでくる。催眠術にかかったように、わたしはそれをかきこむ。ああもうだめだ、もう一口だって食べられない、と思うと、いきなり、吐き気が襲ってきた。
 うっと吐くと、出てきたのは蕎麦ではなく黒髪。わたしの口からズルズルと際限なく、黒髪が溢れだし、あわてて引っ張ると、もう内臓まで裏返るほどにどこまでもどこまでも、黒髪がまるで濁流のように……。
 助けを求めて女を見ると、女の顔はみるみる朽ちて崩れ、ぼろりと、長い髪が塊のまま落ちてきた。怖ろしくなって逃げようとするわたしの足に、その髪が絡みついた。