『あめゆじゅとてちてけんじゃ』/高柴三聞


あめゆじゅとてちてけんじゃ。


こんな北の地に来たところで、欺瞞であると、大雪の中一人思った。八十も過ぎて見知らぬ土地に一人旅である。

吹雪くてぇのは、こんなに凄いのだな。雪混じりの風に身をさらす。寒さで自分の足が痺れて他人の足を操っているような心持である。手なんて、すでに何の感覚もない。

沖縄で国語の教師として奉職してきたが年々ある心残りが胸を苛んできた。

那覇に空襲があった日、妹が死んだ。喉が渇くと言いながら死んでいった。

私は、賢治のようにお椀一つの霙をあたえることもせず、傍らでただ立ち尽くしていた。

あんなに大好きだった妹なのに何もしてやれず、それどころか自らの喉の渇きに喘いでいる有様だ。自分のことで精一杯だった。

私は、宮沢賢治の詩を朗読するたび申し訳ない気持ちでいっぱいになるのだった。

教職を定年してからも、それは変わらなかった。ついに、いてもたってもいられなくなり、一人東北は岩手に飛び出してきたのだ。試案がまとまったわけではない。飛び出ずにはおられなかったのだ。

なんだか、朦朧となってきた。ここで、死ぬのも天命かなとぼんやり思った。

ふと、目の前をおかっぱの女の子が手招きをしているのが見えた。

半そでのもんぺ姿で、こんな吹雪にと思ったが、どうも目を凝らしていると妹の姿に見えて仕方が無い。

吹雪の中、その妹らしき人影は近寄ったり離れたりしながら私を導いていこうとしているように思えた。

妹に、あの世に連れて行ってもらえるのは私としても本望だった。

気がつくと、雪まみれの私が宿の入り口にいた。まだ、生きろと言うことか。

私は人目を憚らずその場で泣いた。

その日私は妹によって生かされたのだった。