『栄転』/虹かずい

 定年を迎えた翌月、私は、数十年ぶりに故郷の東北に帰った。本社が東北にある下請け会社の社長のポストを空けてくれたのである。
 ちいさな駅舎の前で待っていた車から運転手らしき男が降りてきて、ぺこぺこお辞儀をしながら、私にあいさつをしている。制帽とスーツ姿の立派な運転手。社長様か。私は、得意な気持ちで後部座席に乗った。
 運転手は饒舌だった。イントネーションだけの東北弁は、故郷を忘れていた私に、ほどよく懐かしさを感じさせてくれる。
「大正のころ、労働争議というのがあって、紡績工場で働かされていた女工たちはひどい目にあったんですよ。このあたりからもずいぶん出稼ぎに行かされまして」
 運転手は、そう言うとバックミラー越しに私を見た。
労働組合に入っているというだけで会社をクビにさせられましてね。故郷に戻ってもほとんど村八分で」
 労組か。総務畑一筋の私の会社人生は、思えば労組対策そのものだったといえる。ずいぶんあくどい手段も使った。
「前の会社のこと、思い出していたんですか」
 はっとして目をあげると、バックミラーのなかに運転手の顔の左半分だけが見えた。
「階段から突き落とさなくてもね」
 男は言い、不意に車を止めた。
「しかもただの捻挫だったのに、もう働けないといってクビにするやり方も、ちょっと」
 運転手はそう言いながら、制帽を取った。帽子に隠された額のアザがバックミラーのなかに見えた。
 私は突然、不快な記憶を引きずり出された。
 そうだ。たしか、石川という男だった。
「これから毎日お迎えに上がります、社長さん。もちろんお帰りの時もお宅まで」
 本社時代、私が辞職に追い込んだ元労組委員長の石川は、その時のアザを掻きながらバックミラーの中で卑屈に笑った。