『ゴーゴーヘブン』/Don.Thank U

 父が荷を背負い、婆はその後ろに従って杖を突きながら細い山道を登っていく。私は母か誰かに抱かれたまま、それをじっと見送ったのだ。でんでらへいったんか、と村の若い衆が天気を訊ねるみたいに聞いたことに腹を立てたところで、私の原記憶は終わる。
 どうも婆がいなくなったのは、長引く冷夏のせいで不作が続いたせいらしい。それから十年ほどして、私も余所へ連れて行かれることとなった。泣きながら頭を下げる父と、それにいやいや従う弟。母はあいまいに困った顔をして、ごはんが一杯食べられるのよ、と私の手を握るのだが、なんとも全てに飽いた様な感覚ばかりが胸に残った。
 町へ売られること自体はそんなに嫌じゃなかった。嫌だったのは、遠くへ遠くへ歩くこと位か。つま先はぐちゃぐちゃで、膝から先を切り落としたくなるほどに痛む。突然の夕立と雷に追い立てられて民家の軒先で雨宿りをしていると、もうここで雨に流れて死んでしまいたいとも思う。
 三十分か、一時間か。止みそうにない雨を眺めていると通りを旅商が歩いていた。雨音に潰されたように背を丸めながら「修繕はないかね」と繰り返している。雨具も意味のないような雨の中で、誰が鍋や釜なんかを修繕にだすのだろう。不思議に思っていると「ありゃサンカだ」と商人。「山ン中で暮らして、時折あぁやって降りてくるんだ。何処の誰ともよくわからん胡散臭ェ連中だ」
 サンカは私達の前をゆっくりと横切った。すっぼりと被ったマタギの様な外套で顔は殆ど見えない。しわしわの顎を伝う水滴。売り文句を唱えるたびにうやむやに震える唇。虫か何かのように丸まった後姿。

今となっては故郷の事なんて殆ど思い出さない。父母はもう死んだかもしれないがどうとも思わない。ただ、時折客に抱かれている最中にサンカの顎から落ちた水滴を夢想する。