『すき魔』/八本正幸

 中学生の時に修学旅行で行った五色沼が見たくなり、妻を伴って出向いた。沼の色は記憶より鮮やかで、感動を新たにした。来て良かったなと思った。
 その日の宿は古びた木造の旅館で、風情があり「まるで座敷わらしでも住んでいそうね」と妻が笑った。
 風呂に入り、夕食をとっている時のことだ。妻の背後の押し入れが、ほんの少し開いているのが眼についた。几帳面な性格なので、それだけで落ち着かない。座敷わらしの話題も出たこともあり、何かが覗いているような気さえして、妻に閉めてもらった。
 やがて食膳が下げられる。長居さんが去った後、今度は障子が少し開いているのを見つけて、自分で閉めに行った。その時、かすかな空気抵抗のような手応えを感じてゾクリとした。
 その夜、なかなか寝つくことが出来ず、寝返りをうっているうちに、妙な記憶が蘇ってきた。修学旅行の時、同級生の誰かが五色沼に落ちて死んだのではなかったか?その時泊まった旅館は……。
 ふと見上げると天井の板と板の間に、かすかなすき間が出来ていて、そこから何かの気配が漂ってくるように思われるのだ。
 金縛りになったように動けないまま朝を迎えた。明るくなってから見ると、天井板はぴったりと合わさっていて、どこにもすき間などないのであった。
 それ以来、あらゆるすき間が気になって仕方なくなってしまった。まるで「すき魔」という名の妖怪にでも取り憑かれてしまったように……。あのすき間の向こうを覗いてはいけない。そこには二度と戻ることが出来ない深淵があるから……。だから今日も、ありとあらゆるすき間を閉め続けなければならないのだ。玄関のすき間、窓のすき間、襖や障子のすき間、トイレのすき間……。
 そしてほら、あなたの背後にもすき間が!