『犬と人形』/桜井涼

 聡明な顔つきの犬は、突然けたたましく吠えると山中へ消えた。息子と二人で捜索したが、とうとう見つからず日が暮れ、帰らないとぐずる息子をなだめすかして当てなく登った山を下りはじめた。運良く持っていた灯りが役に立ったものの、疲れて再びぐずり出した息子を背負うと、それもただの荷物になった。犬はどこへ消えたのか。聡明だと一目置いていたのだが、やはり犬は犬だったか。
 一向道に出ない。そんなに奥まで来てしまったかと不安がせり上がってくる。灰白い月明かりが草木の輪郭をわずかに浮かばせていた。日が落ちたら山に入ってはいけないとはるか昔、祖母に言われたことが思い返され冷や汗が滲んだ。下生えは邪魔ばかりだ。
道はまだない。ついにこちらがこたえてしまい、木に手を着いた。愛しい息子はまだ夢の中なのか。少し前に動いたようだったが。首を回すと、髪が頬をくすぐった。
 あり得ないものを目にした。父は息子の唯一の支えである両腕を離し、斜面を滑り下りた。息子はカシャン、と音をたてて、草の上に落ちた。愛しい息子であるはずのそれは、泣き声を上げるどころか身じろぎすらせず、ぐったりと倒れている。兢々としながら、灯りを向けた。
 肩を掴んでいたのは人間の手ではなかった。関節部が露わになった光沢のある指。人形だ。四肢は奇妙な形に投げ出され、何と軽装している。背格好は息子と良く似ているが、その顔は子供が描いたのをそのまま模したようだった。異様に大きな目、小さく無に等しい鼻、大きく開いた口は今にも顔を引き裂きそうだ。そしてそれらはぐんにゃりとくの字に歪めて配されていた。気味が悪い。こんな人形、どこから持ってきたのか。息子はどこへ行ってしまったのか。いつからこれを背負っていたのだろうか。叫んでも返事はない。父はまた駆け登って行った。
 後日、聡明な顔つきの犬だけが帰って来た。