紅 侘助『鏡石ノオト逸文』

○土淵村大字五日市の佐々木清吉と云ふ人、オマクに遭う事。
○オマクとはこの地方にて生者死者の思ひが凝りて出歩くを云ふ。
○この人、相当の酒呑みにして近郷に知らぬ者なし。徒名を蟒蛇の清吉と云ふ。
○去る秋に大同の家にて祝ひ事在り。清吉相当に酒を呑み、日の暮れてより大同の家の提灯を借り受け夜道を帰りてダンノハナに掛かりし折、木の陰から伺う人影在り。提灯を掲げて見るに、先年他界したる叔母に見えたり。着物の縞も履物の鼻緒も見紛う事なし。蒼白き面相にて清吉を睨み付けたり。
○清吉の叔母、生前酒代を再三工面し相当の面倒を被ると云ふ。村人の善く知る処なり。
○叔母の木陰より出でて近付くを見るに、清吉気色を失ひ腰を抜かさんばかりに驚きたり。生きた心地もせずと云ふ。その背中をどんと推す者在り。清吉たたらを踏み転び掛けるを猶も背中を推され終に道の端に倒れ見るに、先刻清吉の立ちたる処より叔母は近付く事なし。清吉、提灯を打ち棄て大同の家に急ぎ戻り一夜を明かす。村人子細を聞き、翌朝道を辿りて見るに、大同の家紋の提灯の道の端に棄てられるを見付けたり。猶見るに土の上に清吉の足跡在り。道を遮るが如く残りて、其の際に叔母の履物揃えて置かれたり。
○村人の中に偶さか神楽組の人在り。足跡を見るに此は見事なヘンベなりと云ふ。
○ヘンベとは反閇の謂いにて神楽舞の祓い清めの足技なり。結界を張る作法なり。
○神楽組の人曰く、ヘンベの結界にてオマクは其れ以上近付く事叶わじと云へり。亦、清吉の背中を推してヘンベさせたるは早池峰の神に相違なしと云ふ。
日露戦争の折出征したる男の帰らざる多ければ、神楽の舞手の不足をするに、神楽組頭、清吉に舞手となるを請ふも、清吉生来の酒癖の悪さにより身に付く事なしと云ふ。
○次回例夜に此を先生の御耳に入れるべし。