湯菜岸 時也『猪苗代湖』

 猪苗代湖の神社には、猪を飾った山車が奉納されている。なぜ猪なのか?
 こんな話がある。明治二十年、トモは親戚へおつかいへ行った帰り、気晴らしに寄り道をして湖岸へむかった。まだ八歳のトモは、昨日の事が不安で仕方ない。一人の老僧に水を求められ、茶碗に汲んだところ、「来年の夏までに、村を出なさい」と忠告され――祖母から聞いた言い伝えを思い出したのだ。
 この地を訪れた弘法大師が機織の女に水を求めて拒まれ、そのあと翁から研ぎ汁をもらったところ、突然、磐梯山が噴火して、研ぎ汁を与えた家以外は被災した。そんな話だ。
 生憎、その日は雨模様、小雨が降り、おまけに障子紙を幾重にも貼ったように厚い霧が漂っている。これでは穏やかな湖の風景など眺められる訳がない。足に霧が触れて……。
 「うわ! あったけぇ!」
 トモは驚いた、漂っていたのは霧ではなく湯気だ。見れば湖水は煮えたぎり、水面には沢山の魚が浮かんでいる。
 首を傾げていると、獣の咆哮に似た声が轟いた。見れば湯気から黒煙が昇っているではないか。そちらの方へ行くと、玉子が腐ったような硫黄の匂いがトモの鼻をくすぐった。
 その時、突風が吹き霧が霞んで、家ほどもある猪の形をした塊が湖に沈んでいくのが見えた。表面に雨粒が触れるたびに蒸発して湯気になっていく。まるで薪を入れすぎた竃で、遠くにいても熱気を感じるほどだ。
 目を凝らせば、猪をかたち作っているのは木製のヒトガタ札だった。それが炎をあげながら、各々の手を繋いで踊っているように見えて――その光景に唖然としていると、塊は湖の中へ沈んで消えてしまった。
 翌年、仙台の商家へ奉公に出たトモは、生き残った両親から磐梯山の噴火で故郷の村が壊滅し、祖母が犠牲になったと知らされ、
 《きっとババは湖で眠る》
 そう覚り、突然の訃報を哀しんだ。